これよりも遡った先祖に関しては、家系サイトに詳しいので、それを参考にすると以下の通り6。
Lawrence Washington(上掲ジョンの父)(1602年サルグレイヴ(Sulgrave:英サウス・ノーサンプトンシャー州)の生まれ)
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Lawrence Washington(1565年サルグレイヴの生まれ。子と同姓同名)
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Robert Washington(1540年サルグレイヴの生まれ)×姓名不詳の二番目の妻
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Lawrence Washington(1510年Tewitfield(発音不明:ランカシャー州)の生まれ)×Amy Pargiter(1538年ノーサンプトンシャーで結婚)
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7世代省略
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William De Washington(1230年頃Washington(ダラム(Durham)州)の生まれ)×Margaret De Moreville
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Walter Washington Sir(1212年生まれ。出生地不詳。第2次バロン戦争(1264-1267年)のルーイスの戦い(1264年)で戦死)×
Joan De Ryal De Whitchester(1230年Washingtonで結婚)
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William Washington(1180年生まれ。出生地不詳)×Alice de Lexington(1211年結婚)
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William FitzPatric de Hertburn(1150年生まれ。出生地不詳)×二番目の妻Margaret of Huntingdon(1180年結婚)
上記の家系図には問題があり、他のサイトでは全く違う説も存在する。省略した世代も含めると、JohnやRobert、Williamといった中世
末期からイングランドで多用されてきた男子名で埋め尽くされている。これでは親子の同定は難しい筈で、こんなに先祖を遡れるのものか
疑いを持ってしまう。英Wikipediaの記述では、William FitzPatric de Hertburnをジョージ・ワシントンの先祖とする記事に対して、
「要出典」のタグが貼ってある。取り合えず、William FitzPatric de Hertburnという人物は重要な人物なので、英Wikipediaの記事を参考に
みてみると・・。彼は、1183年に現在のタイン・アンド・ウィア(Tyne and Wear)都市州(1972年以前はダラム州に属す)内にあるワシントン
(Washington)にやって来た。彼はダラム司教に年4ポンド払うことで、当地一帯の借用権を手に入れており、当地に自らの領主邸宅を建造し、
姓を領地名に因んでWashingtonに改姓したと言われている(当時の記録ではWilliam de Wessyngtonの綴りで現れる)7。
この館はワシントン旧邸(Washington Old Hall)の名で現存している。19世紀まで、普通に住居として用いられていた。
英、独の両WikipediaのWashington(名前)項8ではタイン・アンド・ウィアのワシントン地名の初出を
Wasindone(1096年)としている。この情報は、『information BRITAIN』という英語サイトの記事がソースであるらしい
9。然し、この古形は辞書や年代記など、どの様な文献にも一切記載の無い形なので、信用してよいものか
疑問が残る。文献が指摘している他の古形の数は極めてわずかである。ジョンストン(James Brown Johnston)の英国地名辞典は次の通り。 Wassyngtone(1183年)10 Wessinton(1197年)10
ONCは以下の形を挙げる。 Wassyngatona(1183年)11
既出の英WikipediaのWilliam de Wessyngtonの形も1183年の記録で、この年に3つの違った形が存在したことになる。実際に
これら全ての形が記録されているのか、引用先のどれかが誤謬しているのか、どちらなのか真相は不明(ネット・書籍共に一次史料を
見つけられないので判断のしようが無い)。『English Placename Society』(略EPNS)の様な、権威のある地名辞典にも記載されていない。
兎に角、当地名の確実な最初の記録はWilliam FitzPatric de Hertburnという人物の改姓後の姓であるらしい。
●第一要素を古英wāse「ぬかるみ、湿地」19由来説12
誰が最初に言いだした説かは不明だが、EPNSはこの説を否定している。それによると、サセックスのワシントンは丘陵状の草原地帯の丘の突出部(a spur of the downs)に位置し、
その丘の谷の土壌は大粒の砂で構成されている。これでは、確かに「湿地」が誕生する筈も無い。