Hermannus de Satowe(1280年Ribnitz(メクレンブルク=フォアポンメルン州))
1
henricus de satow(1281年Rostock(メクレンブルク=フォアポンメルン州))
2
=
henricus de satowe(1287年Rostock)
2
Johannes plebanus de Satowe(1294年Parchim(メクレンブルク=フォアポンメルン州))
3
Bernardus morans in fine opidi sex solidos, filii Hinrici de Sathow(1323年Schwaan(メクレンブルク=フォアポンメルン州))
4
Iohannes de Sathow(1329年Zamość(ポーランド、ルブリン県))
5
Alberto Satowen(1354年Rostock:肉屋)
6
Hinrico Satowen(1390年Wismar(メクレンブルク=フォアポンメルン州))
7
地名姓。英国の外交官アーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow:1843.6.30 London~1929.8.26 Ottery St Mary(デヴォン州))nの姓。
父親がドイツ北東部の町ヴィスマール(Wismar)の出身で、ドイツ系。現在もヴィスマールを囲むノルトヴェストメクレンブルク郡に多い。
ドイツ語読みはザートー、又はザトーとなると思うが、未確認。以下の同源同名の2ヵ所ある地名に由来。
●ドイツ北部、メクレンブルク=フォアポンメルン州北部ロストック郡の自治体
ザ(ー)トー(Satow)村
quod wlgo uocant
Zathowe, ... in
Zathowe(1219年)
8
cum consensu filiorum suorum ecclesie
Satowie(1224年)
9
Burwini principis Sclauorum filius, cuius consensu
Satowia(1226年)
10
et indaginem
Satowe(1227年)
11
Satow(1233年:地名が列挙されている部分で)
12
in
Satoya, ... Jnter Hermannum de Wokerente et
Satowiam(1244年)
13
quedam bona
Sathowe nuncupata ... decimam
Satowie .... Jnter Hermannum de Wokerente et
Satowiam(1244年)
14
1219年の地名の初出は、メクレンブルク侯
ハインリヒ・ボルウィン一世(Heinrich Borwin I.:1227年没)
15がアーメルングスボルン修道院(Kloster Amelungsborn:ニーダーザクセン州
ホルツミンデン郡)に当地を寄進した記録に見える。
●ドイツ北東部、メクレンブルク=フォアポンメルン州南部メクレンブルギッシュ=ゼーエンプラッテ郡フュンフゼーエン(Fünfseen)村の小地名
ザ(ー)トー(Satow)
cum molendinis, Sukowe,
Satowe(1344年)
16
古くから現名と殆ど変わり無し。地名の語源は、ドイツの言語学者によって以下の2説が唱えられている。
①地名の祖形を古ポラーブ語の*Sadov-
17と想定し、未文証の古ポラーブ*sad「庭、庭園、農場(Garten, Park, Pflanzung)」を
語源と見る
18。即ちポーランドsad「果樹園」,露sád「庭、庭園」と同語源と考える(いずれもPIE*sed-「座る」に遡る)。
形容詞形成接尾辞-ov-で拡張されている為、一般名詞の古ポラーブ*sad「庭園」から直接導かれている場合は「庭園の(ある場所)」という意味、
古ポラーブ*sad「庭園」を語源とする古ポラーブ*Sadという渾名・姓に因んでいる場合は「*Sad(人名:「庭」の意)の土地」という意味である。
古ポーランド語にSad、古チェコ語にSadkoの人名用例が有る
18。
②地名の祖形を古ポラーブ語の*Zadov-と想定し、古ポラーブ語の未文証の個人名*Zadに由来するとみる
18。この名はスラヴ*zadŭ「後部」
(ポーランドzad「後ろのもの、後部」,チェコzád「船尾」,高地ソルブzad「後ろの部分、後部」)に由来する。他の西スラヴ諸語では、
古ポーランド語にZad、チェコ語にZáda、Zádekという同語源の人名が確認される
18。
但し、両説とも母音に挟まれた語中の-d-が無性化したと見なさねば成立しないので、音韻的には疑問が残る。母音間の有声破裂音が
無声化する現象は高地ドイツ語の特徴で(音声学上極めて稀な現象である)、低地ドイツ語圏の固有名詞がそれに影響されて転訛する例は存在するが、13世紀初頭に
、しかもスラヴ語圏内で、その影響が既に波及していたとは考えにくい。そこで、良く知られている次の説も考慮に入れる必要が出てくる。
③原義を"ソルブ語で「種をまく人の村」"とする説である(但し、ソルブ語とするのは良くない(後述))。この説は日本語のネット環境内で
有る程度広まって知られているので、ご存知の方もおられるかも知れない。この説の元々の出所は、Wikipedia英語版の
アーネスト・サトウの姓に関する項目に書かれていた
記事であった。そこには確かに「種をまく人の村」の意だ(It means 'village of the sower')と書かれていたが、
2015年10月26日に削除されている。この改定はドイツ語を第一母語とするFurfurというウィキペディアン(恐らくドイツ人だろう)によって行われている。
彼の言に
よると、「Wikipediaは人物の伝記に直接関係の無いことは普通記さないので、姓の語源を書く意味無くね?」という身も蓋もない
理由で削除したようである(おいおい)。
「種をまく人の村(village of the sower)」説は、Google Book検索によると『我が国の九州工業大学研究報告、vol.41』(1993)p.2に見えるのが早く、そこでは英語で
「サトウ(Satow)は、ドイツ東部のメクレンブルクにあるヴィスマールとロストックの間を結ぶ街道上の有名でも何でもない小村で、
サトウ家の家名はこの地名に由来することは明らかである。その名は、農業に従事していた事を匂わせる"種をまく人の村"を意味する」とある。
殆ど全く同じ文がラクストン(Ian C. Ruxton)の編集になるアーネスト・サトウの
日記・手紙を書籍化した本("The Diaries and Letters of Sir Ernest Mason Satow (1843-1929), a Scholar-diplomat in East Asia."
(1998))のp.3にGoogle Book検索で見つかる。両方ともソルブ語由来との記述は見られない。Wikipedia英語版の
古い版を確認すると、どうやらソルブ語由来説も含め「種をまく人の村」の意だとする言説は、アーネスト・サトウ自身が
その自著『英国サトウ家の家族年代記("The Family Chronicle of the English Satows")』(1925)の中で唱え出したものらしい。
残念ながら私はこの本を読んでないので、本当かどうか解らない。
然しSat-の語形と近似の「種を蒔く」を意味するソルブ語やポラーブ語等の西スラヴ語の語彙は存在しない。
一見①の説とも関係が有るように見えるが、実際には独Saat「種蒔き」(英seed「種」と同語源)を語源としたもののようだ(或いは混同かもしれない)。
独Saat「種蒔き」と同語源の中低独sât≪女性名詞≫「種蒔き、播種(ハシュ)」
19,≪男性名詞≫「種、精子」
19(いずれも英season「季節」,独Samen「種、精液」と同様PIE*sē(i)-「種を蒔く」に遡る:cf.仏姓サド(de Sade))の語が
存在する。又、中低独sate,sât「居住地、フーフェ(耕地面積の単位名)」
19(①と同源で、
PIE*sed-「座る」に由来:cf.独姓ホルスト(Holst))の語が有る。これらの語を語源とする古い低地ドイツ人の渾名・姓が地名の語源となっている
可能性も指摘できるのである。現にそれらに由来すると見られる低地ドイツ語の姓にザート(Saat)がある(古い記録は残念ながら検出できず)。
ここから重要だが、ドイツ人の人名にスラヴ語の接尾辞が接続して地名が形成される例が非常に極めて稀だが存在する。例えばGeißlitz(ザクセン州に数か所)、
Meinardiz(ブランデンブルク州Elbe-Elster郡)、Zebrzydów(ポーランド、ドルヌィ=シロンスク県)等で、順番に古高独の男名Gisilo、
現独の男名マインハルト(Meinhard)とジークフリート(Siegfried)に対応する古い低地ドイツ語男子名に由来している。然し、例を見れば解るように
男子個人名から形成された例は見つかるのに、渾名や姓から派生されたものは確認できない。これはドイツ語起源の渾名や姓がスラヴ語に
取り入れられる前に西スラヴ語の地名形成のラッシュが完了していたことを物語っている。従って、中低独sât「種蒔き」を語源とする可能性は
非常に小さいものであると判断される。
尚、ソルブ語由来とするのは事実に反する。現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州にかつて住んでいたのは西スラヴ系のポラーブ人で、その南限は
ベルリン周辺、より詳しくはフランクフルト・アン・デア・オーダーとマグデブルクを結ぶ線までで、つまり現ブランデンブルク州の北半分も
ポラーブ人の居住地であった。実際はドイツ語とスラヴ語のハイブリット地名(あちらではder deutsch-slawischer Mischnameという専門用語
がついている)説であるにも関わらずソルブ語由来などと言っている辺り、この説がドイツ語とスラヴ語の歴史的状況の基礎素養を殆ど知らない人が唱えたものであろうことは
想像に難くない。
以上の様に、当地の過去の使用言語、古い綴り、文法、周辺語彙の文証、類型パターンなどの素材を使って検討を試みたが、全面的に肯定できる説明は今のところ
示され得ない。これら全ての要素をもってして納得のいく範囲内で説明できない限り、確実な説明など論外である。
[Naumann(2007)p.307]
1 "Mecklenburgisches Urkundenbuch. vol.2 (1251-1280)"(1864)p.644
2 Helene Brockmüller "Die Rostocker Personennamen bis 1304."(1933)p.77
3 Friedrich August von Rudloff "Codex Diplomaticus Historiae Megapolitanae Medii Aevi. vol.1
Urkunden Lieferung zur Kenntnis der Mecklenburgischen Vorzeit. part.1"(1789)sp.151
4 "Mecklenburgisches Urkundenbuch. vol.7 (1322-1328)"(1872)p.155
5 "Monumenta medii aevi historica res gestas Poloniae illustrantia."(1886)p.271
6 "Meklenburgisches Urkundenbuch. vol.13 (1351-1355)"(1884)p.518
7 "Die Recesse und andere Akten der Hansetage von 1256-1430. vol.1 part.2"(1875)p.495
8 "Mecklenburgisches Urkundenbuch. vol.1 (785-1250)"(1863)p.258
9 ibid. p.286
10 ibid. p.325
11 ibid. p.327
12 ibid. p.422
13 ibid. p.532
14 ibid. p.534
15 原文ではnobilis princeps Zlauie Heinricus Bhvrwinusの形で現われている。
16 "Mecklenburgisches Urkundenbuch. vol.9 (1337-1345)"(1950)p.548
17 *Sadov-の様に語末をハイフンで結んでいるのは、この地名が古ポラーブ語でどの文法性で使われていたか明瞭には
わからないためである。上掲の地名の古形は全てラテン語の文法にのっとりラテン語の格語尾を接続するという処理がなされているので、
実際のポラーブ語における使用実態は不明なのである。
18 Peter Donat, Heike Reimann, Cornelia Willich "Slawische Siedlung und Landesausbau im nordwestlichen Mecklenburg."(1999)p.90
19 Lübben(1888)p.316
更新履歴:
2016年1月11日 初稿アップ