Laurs Haluorsen Mundal(1657–1661年、ノルウェー、場所未確認)[注:但し②由来の可能性あり]
1
地名姓。1880年の記録ではオハイオ州に多く、1920年の記録ではミネソタ州に圧倒的に多い。米国の政治家ウォルター・フレデリック・モンデール
(Walter Frederick Mondale:1928.1.5 Ceylon(ミネソタ州)~)の姓。ウォルターの父親はセオドア・シグヴァール(Theodore Sigvaard Mondale)といい、
1876年にミネソタ州の
Brycelyn2で
生まれた。セオドアの父はオーレ・フレデリクスン・ムンダル(Ole Frederickson Mundal)といい、現在のソグン・オ・フューラネ(Sogn og Fjordane)
県ソグンダル(Sogndal)村フャールラン(Fjærland)集落
3内の小集落
ムンダル(Mundal)にて、1850年1月6日に生まれた(没:1918.11.28 Frost(ミネソタ州フェアボー市))。本姓はこの小集落Mundalの
名に由来する。オーレは1856年に両親に連れられて、渡米した
4。オーレの父親はフレデリク・ペールスン・ヴァングス
ネス(Frederik Person Vangsnes)といい、1824年3月24日ヴァングスネス(Vangsnes)の生まれである。オーレの母親、フレデリクの妻はブリタ・
ハンスドッテル・ムンダル(Brita Hansdatter Mundal)といい、1826年10月6日ムンダルの生まれである。当時はノルウェーの人名は個人名・父称・
出生地名の順番で示され、世襲される苗字・姓は普通は持っていなかった。ノルウェーで、世襲苗字が確立されるのは1922年の名前に関する新法が
施行されてからである
5。現在のノルウェー地名姓の多くがこの時、出生地の表示が世代を通して固定化し、世襲される
様になったもので、非常に遅く成立したものである。現在のノルウェーにおけるMundal姓の分布は、ソグン・オ・フューラネ県141件、ホルダラン県
104件が群を抜いており、この後ムーレ・オ・ロムスダール県52件、アーケシュフース県47件、オスロ市34件と続く。
米国の近代史家ジロン(Steven M. Gillon)の著作『The Democrats' Dilemma』によると、フレデリク・ブリタ夫妻はフャールランのフィヨルド沿岸
地域に60エーカーの農場を所有しており、長女インゲボルグ(Ingeborg:1849.1.6 Vangsnes~1925.12.13 Minneapolis(米ミネソタ州))
6と二人の息子オーレとハンス(Hans:1853.11.? Mundal~1923.8.2 Frost(米ミネソタ州))の三人の子がいた。夫妻は三人の子供たちを十分に養っていけるだけの
収穫がこの地で望めるかどうか不安視しており、ムンダル家の近所の人達も同じ事を悩んでいた様である。この為、より肥沃な土地を求めて渡米する者が
ムンダル家の知人にも多く存在した。1850年には約2万人のノルウェー移民が、翌年には3万6千人が米国に渡っている。夫妻も、1856年に
所有地を売却し、三人の子供たちと共にベルゲン港からアメリカへと渡った。ニューヨーク港に到着後、マンハッタン島の最先端に在るキャッスル
・ガーデン(Castle Garden)でぶっきらぼうな移民係官のいい加減な移民手続きを受けた。この時、ある移民係官がムンダル家が米国の地で
"上手く周りと馴染める(to blend in)"様に、英語から見ると奇異な綴りであるMundal姓の末尾に母音字母を一つ加える事を提案し、フレデリクを
Mundale姓で登録してしまった。その後の彼らの足取りは、数日間かけて電車でイリノイ州フォックス・リヴァー(Fox River)に辿り着き、そこに短期間
滞在した後、米国中西部に住む予定のノルウェー移民が休息の場所として立ち寄る事が多かったウィスコンシン州に到着、そこに5年間住んだ。
そして、ミシシッピ川を越えた向こう側のミネソタ州に土地が豊富にあるという伝聞に魅了されミネソタに渡った。フレデリクは1864年7月4日に
ミネソタ州南東部ライス(Rice)郡フェアボー(Faribault)市に3エーカーと28ロッド(rod)(約141.17m)の土地を70㌦で購入した。フレデリクは
そこに2階建ての丸太小屋を建設、同地の開拓の先駆者として記録されている。米国のノルウェー系作家レルヴォーグ(Ole Edvart Rølvaag)の
小説『大地の巨人(Giants in the Earth)』
7(1924年)に、フレデリクとブリタの夫妻の事を「盲目的に不可能性に身を投じ、そして信じられない事を
成し遂げていった」と言及している。夫妻は持ち前の機知や発明の才、勇敢さで開拓者としての浮き沈みの激しい生活を乗り越えていった:
ジャガイモ畑の運営、食用のための野鴨狩り、芝土小屋(sod hut)
8の漆喰塗り、早雪から新しく蒔いた小麦を守る方法、群れからはぐれた
迷い牛の捕獲、寒冷対策等々。1869年、夫妻の息子オーレ(Ole:政治家ウォルターの祖父)は
ホームステッド法(1862年制定)により土地を無償で獲得
したが、ワシントンから届いたその権利証書にオーレの姓が誤ってM
ondaleと綴られてしまっていた。オーレは権利の喪失を恐れて、
仕方なく誤綴のMondaleを新しい姓として受け入れた
9。
他の資料も渉猟した所、フレデリク&ブリタ夫妻は渡米後、更に3人の子を儲けている
10。
第四子、三男:Peter Frederick Mondale(1856.10.2 Marquette(ウィスコンシン州)生まれ)
第五子、四男:John Frederikson Mondale(1859.3.8 Marquette(ウィスコンシン州)生まれ)
第六子、次女:Anna Mondale(1866.8.23 Frost(ミネソタ州フェアボー市)生まれ)
第四子の誕生年月日を見ると、ブリタは身重の状態で渡米の旅をした事になる。恐らくウィスコンシン州に5年も留まっていたのは、第四子と
第五子の誕生・養育に起因してるのではないかと思う。
結果的に、ムンダル一家にとって、ミネソタ州ライス郡フェアボーの
フロスト(Frost)集落が渡米先の定住地・第二の故郷と
なった。このフロストでの1884~1947年にかけての堅信礼
11の記録を参照すると、フレデリク&ブリタ夫妻の孫世代と
考えられる人々の苗字がMondahl、Mondal、Mondale、Mundahl、Mundal、Mundale等と表記されており、その後も全く姓の綴字が固定化されていなかった
事が窺える
12。
ソグンダル(Sogndal)村フャールラン(Fjærland)集落の小地名
ムンダル(Mundal)の地名の歴史上の変遷は以下の通り
(あまりに小さな微細地名の為、Google地図の最大拡大図にも未掲載の地名である)。
Jtem j Tallg i
Mundodaller. Jtem i Vangsness ...(1535年)
13, 14, 15
Munndall(1567/1603年)
13, 15
Nummedall |sic|(1611年)
15
Nere
Mundal(1667年)
13, 15
Nedre
Mundal(1723年)
13, 15
後半要素はノルウェーdal「谷」である(cf.
ダーレ(Dale))
。前半要素は、ノルウェーの歴史学者・地名学者リグ(Olluf Rygh)の『ノルウェー農場名辞典』によると、*Mundaという文証されていない
川の名前に由来し、その名はmunda「目的地への方向を捜す」
16という動詞と関係づける仮説を唱えている。このリグが指摘している動詞は、
古ノルド語のmunda「狙う、(~の方へ)ひたすら進む(zielen, streben)」
17の事であろう。この解釈にのっとるなら、*Mundaは「(合流点に向かって)
滔々(トウトウ)と流れる川」といった程の意味で名付けられたと推測される。そして、この場所にクローケネス(Kråkenes)という
場所で落ち込むムンダルスベッケン(Mundalsbækken)という川が有るとリグは指摘している。ノルウェーの言語学者ヴォーグスリ(Eivind Vågslid)も
*Mundaとは、この付近を流れるMunddalsbekkという川の旧名だとしている
18。河川名Mundalsbækken又はMunddalsbekkは、恐らくムンダル集落の南に流れる小川
ムンダルスエルヴィ(Mundalselvi)の事であろう。
尚、1535年の初出に見えるVangsnessという地名は、当地から南25㌔に位置する集落
ヴァングスネス(Vangsnes)の事である(既出の通り、ウォルターの父方直系の曽祖父が生まれた場所である)。
所で、平凡社新書の辻原康夫著『人名の世界史』(2005)p.59には、Mondale姓に関して異例の長文で詳しい説明がなされている。語源に関する言及自体は短いが、
上掲説とは全く異なる内容である。英語以外の言語圏からの渡米者の姓が様々な経緯によって英語化されたという話の下りに有る。興味深い内容なので
、該当部分を引用する[下線強調はマルピコスによる]。
"ウォルター・F・モンデール(Walter Frederick Mondale)元駐日大使の曾祖父フレデリック・ムンダル(Frederick Mundal)氏は、一八五〇年代に
ノルウェー移民として米国に入国したが、その際審査官の単純なミスから語尾にeがついたという。入国管理書類に一度書き込まれた内容は、
日本の戸籍同様に面倒な訂正手続きを求められるため、英語の不自由なムンダル氏はやむをえずそのまま北欧系入植者の集まるミネソタ州へと
直行した。ところが、ここでもまた受付係官が綴りのuをoととりちがえて記入、こうして
中世ノルマンディ公領の「ムンダイエ修道院」の名に
由来するムンダル姓は切り張りされた挙句、あえて訳せば「山の渓谷」といった意味をもつ新しい姓につくり変えられてしまったのである。"
この辻原氏の解説に対して、もっと掘り下げて検証する。この様な簡単な解説では正しいかどうか判然としないからだ。まず
この文章を読む限り、フランス北部のノルマンディー地方に存在したムンダイエという地名に由来すると辻原氏は捉えているように見える。肝心の
ムンダイエの綴りが載っていないので想像するしかないが、恐らく辻原氏は*Mundailléか、或いは"ムンダイエ"の最後の-エが"ユ"の誤植である可能性も加味するのであれば、
*Mundailleの綴りを想定しているのではあるまいか。但し、この様な綴りの地名はノルマンディーどころか、フランスのどこにも見出せない。但し、
これと近い†モンダイユ(Mondailles)なる封土名が13世紀のフランスの記録に見える。それによれば、1226年10月フランス王ルイ8世が対立していた
アルビジョア派の根拠地の一つであったコーモン(Caumont)
19の領主ギヨーム一世(Guillaume I(Guilhemとも))が、ルイに
忠誠を誓う為に自身の領土であるコーモンとその付属領地をルイに献上したとあり、その付属領地9ヵ所の一つがMondaillesであった。
以下に該当箇所を引用するが、二つの異文がある[太字強調はマルピコスによる]。
"Ego Guillelmus de Calvomonte notum facio universis quod ego recognovi karissimo domino meo Ludovico regi Francie illustri me
de ipso tenere Calvummontem cum pertinentiis , Seinchentin , Montem-petrosum , Castrum-novum,
Mondailles, Sanctum Cosmam,
Seferac, Croejox, Rocam Lauram, et id quod habeo apud Belvoier, Seinchiele, Salgues, Rocam, Mielet, Parlan et Soiserac in
Caturcesio, cum pertinentiis eorumdem. "
20
もう片方の異文はこちら。
"Charta quâ Guillelmus de Calvo-Monte recognoscit se de Ludovico, Francorum rege, tenere Calvum-Montem cum pertinentiis, Sein, Chentin,
Montem-Petrosum, Castrum-Novum,
Mendailles, Sanctum Cosmam, Seferac, Croicjox, Bocam-Lauram et alia, et de his omnibus ei
contra omnes homines homagium ligium præstat."
21[ここでは、問題の地名の最初の母音がeで現われているのが注目
される]
現代語形での該当地名の釈文は以下の通り。
"Caumont, Seinchentin, Montpeyroux, Castelnau,
Mondaille, S. Cosme, Seferat, Crocion, les Roües, Laurane"
22
然し問題なのは、アルビジョア派は南フランスで起こった宗教ムーブメントであり、当然これらの地名はノルマンディーのものではない。
勿論、ノルマンディー公国とも何の関係も無い。また、この南フランスの†Mondaillesという地名が現在のどの場所に当たるのかも不明である。
他には、†モンダイユ(Mondaille)といフランス姓が近代の資料中に現れる(但し、現在は廃姓)。
François-Frédéric Mondaille(1846年Punaauia(ポリネシア):銃士)
23
これ以外には、Mondailleは殆ど全く記録に見えない名前である。
残念だが、いくら調べても辻原氏の説を支持する様な材料は見つからない。いずれにしてもこの説は、フランスの地名が何故ノルウェー人の苗字なって
いるのか、相応の説明が必要になってくる。この説明が出来なければ、当然説得力に乏しい訳だし、まず有り得ないと見て良いだろう。正直、この氏の語源説明、
かなり滅茶苦茶な事を言っている様に私なんかには映るのだが・・・。又、姓の英語化の経緯やムンダル夫妻の足取りも米国の出版物に
書かれている事とかなり隔たりが有る。
尚、モンデール家の故郷であるノルウェーのフャールランにはホテル・ムンダル(Hotel Mundal)が存在する。このホテルは19世紀末に
氷河探検のガイドをしていたミケ・ムンダル(Mikke Sjursen Mundal:1857~1936)とその妹であるブリタ(Brita Sjursdotter Mundal:1860~1936)によって経営が始められた宿屋ムンダル(Mundals Gjestgiveri)が
前身である。後、1891年にミケとブリタは他の兄弟とブリタの夫
オラウス(Olaus)と共にホテルを建設し今に至る。このホテルに、1979年
ウォルター・モンデールが米国副大統領在任中に一度だけ泊まった事が有る。その後も、毎年夏にウォルターやその家族、それ以外の有名な公人が
私的にこのホテルを利用するようになっている
24。
[写真はホテル・ムンダル(1900年撮影)]
Gutorm Oluffsen Øffre Mundall(1652年Mundal øvre(ホルダラン県))
25
Birrete Mogensdotter Øffre Mundall(1652年Mundal øvre)
25
Halvor Oluffsen Mundal(1653年Bergen(ノルウェー、ホルダラン県))
26
②ノルウェー姓:
ムンダル(Mundal)姓の中でも、ホルダラン県分布のものは別語源である。こちらの姓の方が文献上の古い記録が見られる。
本姓はノルウェー南西部ホルダラン県リンノース(Lindås)村の集落
ムンダル(Munndal)(綴り注意)に由来する。
極めてマイナーな微細地名の為、Google地図の最大拡大図でも非表示だが、集落の南西にある
トンネルの名前に
現われている。ムンダル集落の中では更に上地の
Mundal øvre集落と、下地の
Mundal nedre集落に別れる(こちらはトンネル名と共に、-n-が一つ足りないMundalの綴りである事に注意)。地名の変遷は以下の通り。
i Bergenn giffuer ieg xxx monders matebooll i
Munningdall(1308(又は1309)年)
27, 28
Muningedall(1563年)
27
Mundal(1567年)
27
Jtem iij marc Seuat paa
Mwndugedal(16世紀)
29
Mongedall(1610年)
27
Muningdall(1611年)
27
Monningedall(1620年)
27
Øfre og Nedre Mundal(1667年)
27
時期は判明してないが
Mwndal27、
Mwndagedal27の綴りも確認されている。
当地は河口に存在する事から、第一要素は河川名に
由来するとリグは解釈している。彼は更に次のように解釈する。古い綴りから判断するに、第一要素は文献上記録が有るMunnlaugという
河川名(ノルウェー南東部ヘードマルク県グルエ(Grue)村の集落
Moldusen近くに
有ったらしい)と、語源上関係が有ると見る。この名前はノルウェー南部のヴェスト・アグデル県の町フレッケフィヨール(Flekkefjord)
に伝わる伝説に見える池の名前Mundlaugとも関係が有り、mundlaug「(手や口を洗うための)盥(タライ)、洗面器」という女性名詞を語源としていると指摘する。
又、mundang「適切な状態(ret, passende Forhold)」という語との関係を想定する説が有るらしいが、これに関しては意味の上から不適切として
排除している
27。
mundlaug「手洗い用水盤」の語は、どうも現代北ゲルマン諸語には現存しない語であるらしいが、ルーン銘文に用例が見える。ノルウェー南部
ヴェストフォル県Tjølling村の墓地(9世紀半)で、埋葬者の女性の腹部部分から発掘された青銅製の水盤
30に次ぎの
ようにある。
imuntlauku31
これは、古ノルド語の一般的な転写法ではí mundlaugu
と綴られる。古ノルドíは英inと同語源で「~の中に」の意で、後続の名詞は与格形をとる。mundlauguはmundlaugの単数与格形。第一要素のmundは
古ノルドmund「手」
17、第二要素laugは古ノルドlaug「灰汁(アク)、入浴、洗浄」
32
(=英lye「灰汁」,独Lauge「灰汁」)である
31。
然し、初出のMunningdall等の形からは第一要素が人名に由来する可能性も否めない(マルピコス説)。古ノルド語には
接尾辞-ingrによる男子名が存在した。この接尾辞は帰属を表現し、
人名に接続して「~の息子、~の子孫、~の一族の者、≪複数形で≫~一族」を意味する名を形成する。初出形Munningdall等からは古ノルドmunr「意志、
精神、命、意味」
17を語源とする*Muningr、*Muni、*Munrという人名が、16世紀のMwndugedal
等の形からは古ノルドmund「手」ゲルマン*mundiz「手、防御」
17を語源とする人名*Mundingr、Mundo
33、Mundi
33が、地名の第一要素の候補として想定出来る(後者の説は、リグの説と語源場関係が有る事になる)。
MuningedallやMwndugedal等の形から第一要素が複数属格形を
取っていた痕跡(後ろから二番目の音節核の-e-(<古ノルド≪a語幹男性名詞複数属格語尾≫-a))が観察されるので、この地名の場合、
接尾辞-ing-は「~一族の者」の意味で使われていたと考えられる。従って、この地名の原義は「*Muni、又は*Munr(人名)一族の谷」「Mundo、又はMundi
(人名)一族の谷」と解釈する事が可能である。mundlaug「盥」由来説よりもこれらの人名に由来していると考える方が、音韻的にも意味の上でも
古い綴りからも、より上手く、より自然に説明できよう。
◆古ノルドmunda「狙う、ひたすら進む」(フェローmunda「狙う」)←ゲルマン*munðōn「注意を払う、観察する」(古英myn(d)ġian「覚えている、
目論む、思い出させる」,ゴートmundōn「狙いを定める、注意を払う、観察する」)←初期ゲルマン祖語*mendʰh₁-「記憶に留める(原義「思い置く」)」
PIE*men-「考える」+*dʰeh₁-(=*dhē-)「置く」
34。
上掲説はコペンハーゲン大学の印欧語学者Guus Kroonenによる。ケーブラーはPIE*men-「考える」の拡張形*mendh-由来説をとる。
どちらが正しいかは難しいところ。いずれにしても、PIE*men-「考える」の対応語の一つであるのは間違いないだろう。
1 Oscar Albert Johnsen, Rolf Fladby "Aktstykker til de norske Stændermøders historie 1548–1661. vol.3"(1974)p.267
2 読み方不明。Google地図ではブリセリンのカタカナ転写、ロシア語・ウクライナ語Wikipediaではブライスリンと読むキリル文字転写、
英語のサイトでは"BRYS-luhn"という
英語式発音補助表記が有るが、どれが正しいのか明らかでない。尚、世界最大の発音サイトforvoには、本語は未載(2015年4月現在)。
3 フャールラン集落は1849年まではライコンゲル(Leikanger)村に属し、それから2000年まではボーレストランド
(Balestrand)村に属した。2000年の所属共同体の変更は1995年のフルダル・トンネル(Frudalstunnelen)の開通により、交通がフィヨルドによる
海路から自動車による陸路に移った為。
4 Leslie H. Southwick "Presidential Also-Rans & Running Mates, 1788-1996."(1998)
5 http://www.nordicnames.de/wiki/Surnames
6 カタカナ転写怪しい。長女インゲボルグはブリタの娘ではなく、フレデリクとその前妻であるマルタ・リダル(Martha Jonsdotter Lidal:生没年不詳)との
娘であった。
7 1924年の初版、及び1925年の第二版はノルウェー語で書かれ、題名もノルウェー語で"Verdens Grøde"(「世界の大地」の意)であった。内容は1870年代の
ダコタ準州における、
ノルウェー系移民の開拓奮闘記である。
8 sod house, soddyとも。北アメリカの北部の大草原で主に建設された居住用家屋。草原には石や木などの一般的な建材が不足しており、
逆に芝生は無尽蔵に有った。この芝生を長方形に切り抜き、壁として用いて建てられた家をいう。
9 Steven M. Gillon "The Democrats' Dilemma: Walter F. Mondale and the Liberal Legacy."(1992)pp.1ff.
10 http://www.geni.com/people/J%C3%B8rgen-Fredrik-Pederson-Vangsnes-Mundal/6000000001528546214
11 英Confirmation:幼児洗礼を受けた者が成人後、信仰告白をして教会員になる儀式。
12 http://www.debbiesgenealogy.com/Bethany(Frost)-confirmations.htm この堅信礼の記録に現われている姓の殆どが
ノルウェー系である。フロストがノルウェー移民が集中するコロニーになっていた事がよく分かる。
13 Eivind Vågslid "Stadnamntydingar: Eidsvoll, Eigin utgjevnad. vol.1"(1958)p.20
14 "Norske regnskaber og jordebøger fra det 16de aarhundrede. Udg. for Det Norske historiske kildeskriftfond
ved H.J. Huitfeldt-Kaas: 1520-1570."(1906)p.483
15 NGN vol.12(1910)pp.145f.
16 リグの辞書にはmundaの語義説明は、最初ノルウェー語で"steven"とあり、その後デンマーク語で"søge frem i den Retning,
som fører til Maalet"とある。ノルウェーstevenは現在裁判用語で「(法廷に)人を呼び出す」の意で用いられる動詞である。デンマーク語の語義説明は、
既出の通り「目的地への方向を捜す」の意である。全く意味の違う語義で説明がなされているのだが、これはどういう事なのだろうか。
17 http://www.koeblergerhard.de/an/an_m.html
18 Eivind Vågslid "Stadnamntydingar: Eidsvoll, Eigin utgjevnad. vol.1"(1958)p.20
19 この地名、南フランスに少なくとも4ヵ所存在する。どのCaumontか不明(詳しく調べれば解ると思いますが、本旨に
全く関係無いので、且つこの様な同定作業は結構大変・面倒なので、割愛します)。
20 Jean Baptiste Alexandre Théodore Teulet, Joseph de Laborde "Layettes du trésor des chartes. vol.2"(1866)p.94
21 Louis Georges Oudart-Feudrix de Bréquigny, Jean-Marie Pardessus, Édouard René Lefebvre de Laboulaye, Georges Jean Mouchet
"Table Chronologique Des Diplômes, Chartes, Titres Et Actes Imprimés concernant l'Histoire de France. vol.5"(1846)p.293
22 Anselme de Sainte-Marie,Ange de Sainte-Rosalie "Histoire de la Maison Royale de France, et des grands
officiers de la Couronne."(1728)p.468
23 M. Bajot "Annales maritimes et coloniales. 31e année. - 3e série."(1846)p.346
24 http://www.hotelmundal.no/index.php?option=com_content&view=article&id=53&Itemid=334&lang=en
25 http://digitalarkivet.no/sab/nhlTgb03.htm
26 Bergens Historiske Forening "Skrifter. vol.44-46"(1938)p.269
27 NGN vol.11(1910)pp.343f.
28 "Diplomatarium Norvegicum. vol.15"(1896)p.3
29 H.J. Huitfeldt-Kaas, Arne Odd Johnsen "Norske regnskaber og jordebøger fra det 16de aarhundrede. Udg. for Det
Norske historiske kildeskriftfond ved H.J. Huitfeldt-Kaas. vol.3-5"(1905)p.445
30 http://www.manfrieds-trelleborg.de/articles.php?article_id=88
31 Terje Spurkland "Norwegian Runes and Runic Inscriptions."(2005)p.123
32 http://www.koeblergerhard.de/an/an_l.html
33 http://www.nordicnames.de/wiki/Mundi
34 http://en.wiktionary.org/wiki/Appendix:Proto-Germanic/mund%C5%8Dn%C4%85、
http://www.koeblergerhard.de/an/an_m.html
更新履歴:
2015年4月25日 初稿アップ