アルメニアmkrtič'「洗礼者」を語源とする男名ミキルティチ(Mikirtič')の短縮形ミコ(Miko)に由来するとみられ、「Mikoの子孫」を意味する姓。
父称姓。文字通りには、「Miko(人名)の(子)」を意味する。語尾の-yanはイラン語の複数属格語尾を借用したもので、イラン人の姓でもこの語尾はしばしば見られる
。ミコヤンという姓を持つ有名な人物としては、ソビエト連邦の大物政治家アナスタス・ミコヤン(Anastás Ivánavič Mikoján(英転写
Anastas Ivanovich Mikoyan):1895.11.25~1978.10.21)と、その弟で航空機開発技術者アルチョム・ミコヤン(Artëm I. M.:1905.8.5~
1970.12.9)がいる。後者は、航空機開発局ミグ(MiG)の名前の名祖にもなっている。父親のファーストネームはホヴハンネス(Hovhannes(Հովհաննես))
といい、職業は車大工と英Wikipediaにはある
1。一方、Wikipediaロシア語版にミコヤン家の家系図が載っており
2、そこでは父親の名は、オヴァネス・ネルセソビッチ・ミコヤン(Ованес Нерсесович Микоян:
1856~1918)
3とある。このページ掲載の家系図の画像を参照すると、オヴァネスの父親はネルセス(Nerses(露Нерсес
,アルメニアՆերսես))といい、生没年は1830~1896年である。更にその父はミコ(Miko(露Мико,アルメニアՄիկո))といい、生没年は1800~1860年で
あり、ミコヤン姓はこの人物の名前に由来している事が判る。
ミコヤン姓の語源について我が国では、ギリシア人の男子名ニコラオス(Nīkólāos:原義「勝利」+「民」)に由来するとする説が知られている
4。確かに、このギリシア人男名から生じたスラヴ語の男子名として、ポーランドMikołaj(ミコワイ)
5、チェコMikoláš(ミコラーシュ)
6、チェコ,スロヴァキアMikuláš(ミクラーシュ)
7といった、語頭子音がmに変化した名前が存在する。然し、こういった変化を蒙った名は、前掲の通り西スラヴ諸語に
特徴的なもので
8、アルメニアとは地域的な隔たりがある。確かに、東部にもハンガリーMiklós(ミクローシュ)
6、スロヴェニアMiklavž(ミクラヴジ)
7、ウクライナМикола(Mykola:ムィコラ)
7、古露Микита(Mikita:ミキータ)(1391年ノヴゴロド)
9等のM-を持つ形が見られるが、
西スラヴ語からの借用か、影響によるものであろう。ブルガリア語やセルビア語といった、スロヴェニア語以外の南スラヴ諸語の中でも更に南東の
グループではN-の形である。N→Mの変化が遠く離れたアルメニアにまで波及したと考えるのは、かなり無理が有るだろう。勿論、アルメニア語の
ニコラオスはN-の形を持ち、Նիկողայոս(Nikoġayos(ニコハヨス))
7、Նիկողոս(Nikoġos(ニコホス))
7で
ある(ղ(ġ)は[l]が弱化したもので、フランス語のrの発音と同じ子音)。私も最初この説を信じていたのだが、語頭にM-を持つ形が西スラヴ諸語起源で
あることから、非常に疑わしいと思う様になった。
語尾に-oを持つ二音節のアルメニア人男子名は、古高ドイツ語よろしく何等かの名前の短縮形である。そこで、私も独自に考えてみた。
もしかして、英Michael(マイケル)と同じくギMikha

l(ミカエール:大天使の名)の借用に由来する男名の短縮名が
Mikoではないかと思ったのだ。調べてみた所Wikipediaロシア語版も、この私の思いつきと同じ説を採用している事が判った
2。
然し、そうは問屋が卸さない。この大天使名に由来する男名はアルメニア語ではՄիքայել(Mik'ayel(ミカイェル))
10であり、kが古典ギリシア語に
忠実な気息音で表現されており(ք(k')は無声軟口蓋有気破裂音[kʰ])、単純な[k]を持つミコヤン姓の語源たる男子名Միկո(Miko)の語源であると
単純に捉えてよいものか疑問が残るからである。但し、アルメニア人自身が男名ミカイェル(Միքայել(Mik'ayel)の短縮名をローマ字でMikoと表現している
事例はしばしば見られる
11。また、アルメニアの作家ミカイェル・ホヴハンニシャン(Michael Hovhannisyan
(Միքայել Հովհաննիսյան):1867~1933)が用いたペンネームの一つに氏名を短縮したMikho-Ohanを用いてるので
12、
Mikhoという短縮表現も存在する。
一方、アルメニア系二世の米国の作家サローヤン(William Saroyan)によると、ミコヤン兄弟の父親の姓はMukkerditchianといい、若い頃にこの姓を略されて
Mukoと呼ばれていた。この名前は、しばしばMikoとも発音されたり、聞えたりした為、そこから姓をMikoyanにしたという
13。然し、この
ムッケルディチャン(Mukkerditchian)という名前の素性ははっきりしない。アルメニア文字に還元するとՄուկկերդիչյանとなるが、その様な綴りの
苗字はアルメニアには無いらしく、Googleアルメニア語版でも検索に引っかからない。この姓の語源説明も他には見られず、既出のWikipediaロシア
語版の家系図の情報とは矛盾しているので、信憑性があるのかどうか定かではない。
但し、ムッケルディチャンと語源的に関係が有りそうなアルメニア姓は実在する。ミキルディチャン(Mikirdichian(Միկիրդիչյան))
14、メゲルディチャン(Megerditchian(Մեգերդիչյան))
14、メグエルディチャン(Meguerditchian
(Մեգուերդիչյան))
14、ムグルディチャン(Mgrdichian(Մգրդիչյան))
14等である。イランにも、
これと同源と考えられる姓が存在し、メケルディチャン(Mekerdichian)
15、メゲルディチャン(Megerdichian)
16、メゲルディジャン(Megerdigian)等が有る。これらは、恐らくアルメニア人の
男子名ムグルディチ(Mgrdič'(Mgrdichとも転写))
17を語源とする父称姓と考えられる(マルピコス説)。この男名にはムクルティチ
(Mkrtič'(Մկրտիչ))
18という異形があり、恐らく後者の方がオリジナルの名前であろう。アルメニア語西部方言は中世に
単純な無声破裂音が有声破裂音に転じる音韻変化を起しているからである。つまり、オリジナルの[k]や[t]が西部では[g]や[d]に変化した。
つまり、ムクルティチは東部、ムグルディチは西部の方言を反映した形である。ニチャニャン(Marc Nichanian)によれば、Mgrdichという男名は
アルメニア語で「洗礼者(Baptist)」を意味すると指摘している
19。彼の言を参考に調べてみると、何と!、アルメニア
մկրտիչ(mkrtič')「洗礼者(baptist)」
20という単語が実在する事が判明した。
男名ムクルティチは子音が4連続し発音困難なため、支え母音が挿入されたミキルティチ(Mikirtič'(Միկիրտիչ))という異形も存在すると考えられる。
試みに、この綴り(Միկիրտիչ)でGoogleアルメニア語版で検索をかけると、ちゃんと引っかかり男子名として実在していることがわかる
21。
また、既に述べたアルメニア姓ミキルディチャン(Mikirdichian)の綴りからも、間接的にこの異形の存在が裏付けられる。異形*Mikirtič'の
短縮形はミコ(Miko)になる筈なので(アルメニア語男子名の短縮形は-oを語尾に採る二音節語になる)、ミコヤン兄弟の曽祖父ミコの名が
男名ミカイェルではなく男名ムクルティチを語源としている可能性も十分有り得るのである。どちらが正しいのか判断の難しい所だが、
有気音ではなく単純な[k]の音で表記されているMikoyan(Միկոյան)という語形から、語源は男名ムクルティチ(Mkrtič')である蓋然性が高い様に
筆者は思う。
という訳で長い考察になったが、まとめるとアルメニアmkrtič'「洗礼者」を語源とする男名ミキルティチ(Mikirtič')の短縮形ミコ(Miko)に由来し、
「Mikoの子孫」を意味する姓であるという説を筆者は採ることにする。所で、アルメニアmkrtič'「洗礼者」の語源は何であろうか。調べてみたが、
良く判らなかった。チェコkřtitel,スロヴァキアkrstiaci「洗礼者」
22
と何となく形が似ている。もし関係が有るなら、キリストと語源上関係が在ることになる。然し、何も証拠は無いので単なる憶測でしかない。
1 http://en.wikipedia.org/wiki/Anastas_Mikoyan
2 http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%B8%D0%BA%D0%BE%D1%8F%D0%BD
3 このWikipediaのページに掲載されている家系図の画像ファイルでは、父親の名はオガネス
(Оганес)とあり、生没年も1860~1915年になっている。
4 辻原(2005)p.90
5 渡辺(2005)p.72
6 梅田(2000)p.347
7 http://en.wiktionary.org/wiki/nicholas
8 ヴェンツェルの苗字辞典を見てみると、西スラヴにおけるmの形を持つニコラオス系の名の最初期の記録は、1342年のミコシュ(Mikosch)
である(Wenzel(1999)p.175)。恐らく、実際の出現はこれよりも更に遡るだろう。
9 Valentin Lavrent'evič Janin "Novgorodskie akty XII-XV vv. chronologičeskij kommentarij."(1991)p.34
10 http://en.wiktionary.org/wiki/%D5%84%D5%AB%D6%84%D5%A1%D5%B5%D5%A5%D5%AC#Armenian
11 実例として、以下のものを挙げておく。
http://de-de.facebook.com/mamikonjanm
http://javakhk.livejournal.com/230593.html?thread=2283201
但し、これらの表記は有気音のք[kʰ]を、単純なkでローマ字転写しているだけかもしれない。
12 http://en.wikipedia.org/wiki/Nar-Dos
13 William Saroyan, Dickran Kouymjian "Warsaw visitor ; Tales from the Vienna streets: the last two plays
of William Saroyan."(1991)p.123 この書籍は、サローヤンが晩年に書いた2つの劇をKouymjianが編纂したものらしい。
14 http://feefhs.org/links/armenia/am-sur.html
15 http://names.whitepages.com/last/mekerdichian
16 http://www.americanlastnames.us/M/MEGERDICHIAN.html
17 http://feefhs.org/links/armenia/am-male.html
18 http://www.armeniapedia.org/index.php?title=Mgrdich_Khrimian
19 Marc Nichanian "Writers of disaster: Armenian literature in the twentieth century."(2002)p.303の脚注1
20 http://translate.google.com/?hl=en#en|hy|baptist 但し、Bedrosian(1879)p.480の古アルメニア
語辞典では品詞がa.、即ち形容詞で本語を掲載し(a.はadjectiveの略)、語義を「洗礼(式)を施した(baptizing, christening)」とし、又、品詞は
np.(proper name「固有名詞」の略)とし、「洗礼者ヨハネ」の語義を挙げている。この事から、「洗礼者」の語義は後代に現れたものと判断される。
21 http://www.google.com/webhp?hl=hy#hl=hy&source=hp&q=%D5%84%D5%AB%D5%AF%D5%AB%D6%80%D5%BF%D5%AB%D5%B9&rlz=
1R2ADSA_jaJP417&bav=cf.osb&fp=4d8c5cdcdcd20014&biw=1296&bih=620
22 http://www.websters-online-dictionary.org/definitions/baptist
執筆記録:
2011年11月13日 初稿アップ