van Gogh ゴッホ(蘭)
概要
オランダとの国境に接するドイツの町ゴッホ(Goch)より。語源不明だが、古ザクセンgôk「カッコウ」と何らかの関係有り?。
詳細
Gosuinus de Goche curia(1232年Goch(独ノルトライン=ヴェストファーレン州))1
Petro de Gogge(1326年Köln(独ノルトライン=ヴェストファーレン州):聖職者)2
Theodericus de Gogh(1350年Meißen(独ザクセン州))3
Johan van Goch(1449年Zwolle(オーファーアイセル州))4
Heyndreck Gerets van Goch weduwaenar van Wees(1627年Haarlem(北ホラント州))5

地名姓。発音は「ヴァン・ホッホ」が近い6。異綴のヴァン・ホッホ(van Goch、van Gog)姓とともに、オランダ南部に 広く分布する。ドイツ西部ノルトライン=ヴェストファーレン州クレーフェ(Kleve)郡の、オランダとの国境に接する町ゴッホ(Goch)に由来する 姓である4, 7。『Oxford Names Companion』では複数ある同名の地名に由来すると書いてあるが 8、上記の一箇所以外に他には無い。オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh:1853.3.30 Zundert(北ブラバント州)~1890.7.29 Auvers-sur-Oise(仏、ヴァル=ドワーズ県))の苗字。地名の歴史上の変遷を以下に列挙する。

Gohhe(11世紀)9
Conradus de Gogge(12世紀末:人名)9, 10
Goch(1249/1297年)11
de Goghe(1286年)12
ville de Gogh(1287年)9, 10
et jure sicut est in opido Gogh absque dolo et fraude.(1329年)13
Goych(15世紀)9

カウフマン(Henning Kaufmann)によると、地名を次のように説明している9
"[当地から]北東18kmに位置する都市Emmerich(villa Embriki(828年))の名と同様、恐らくラテン語の属格語尾-iを伴う属格起源の地名に基づく。 多分、12世紀に記録が有るヘルダーラントにあった正体不明の地名Gokesfordeが世俗的名称で、それに対する公的名称が*Gög(g)i、*Gökiであり、 これが今日の地名となった。初出形Gohheに見える-hh-の綴字はケルンにおける表記によるもので、高地ドイツ語化したもの。[中略]この形は、 [語末に存在した]起源的な-iが既に弱化して-eとして現れている。"
そして、カウフマンはゲルマン人の男名Hugo(<古高独hugu「精神、思考、理性、意識」)のラテン語化した短縮形Gogoに由来するとしている。 又、彼は男名Gogoの強変化名詞に改変した文証されていない男名*Gog(i)、*Gok(i)に由来する地名として、10世紀に見られるフリジア人の地名 Gokeshemと、バイエルンの地名Gochsheimを挙げている。

カウフマンの説には疑わしい点が二点ある。
●初出形Gohheの語末母音-eは、本当にラテン語の属格語尾-īの名残なのか。私には、奪格支配のラテン語の前置詞inやdeに地名が後続して、 単数奪格形(語末に語尾-eがくる)をとっているだけではないかと思うのだが・・・。但し、残念ながらこの初出形の前後の統語関係が判らないので 14、断定できない。この初出の史料が何語で書かれているか不明だが、当時は殆ど全ての文書がラテン語で書かれた。 ラテン語で書かれた古文書内で地名の語末に-eを採っている場合、殆どラテン語に模した奪格形である。また、もし地名に元々属格語尾-īが 後続していたら、この-īが前舌母音であるため前半要素の母音oがウムラウトを起こす筈である。その結果、実際には例証されていない ゲッヒ(*Göch)という地名に辿り着いていなければおかしい。
●HugoがGogoになる事はあり得るのか。確かに、ゲルマン語の語頭におけるh+流音という特殊な環境におけるhが、gになる例は見られる。例えば、 古いドイツ人男名Hr(u)odger(=英,仏Roger)から、ドイツ姓Groger、Grögerが生じた。然し、この様な例は元々大変稀であり(この条件でh→kは まだ良く見られる)、しかも母音が後続するhがgに変化するなどという例は見たことが無い。

また、バーロー(Hans Bahlow)の「湿地、沼地」を意味するという説が有るが8、埒も無いことである。その様な、或いは 似たような意味と語形を持つ単語は実在しない。バーローが「湿地」説を採っている場合は殆ど根拠が無い。彼は殆どの地名を「湿地」と関係付ける 奇妙な癖があった。今日ドイツでは彼の地名に関する語源説が全く受け入れられていないのは、独Wikipediaにも書かれている通りである 15

地名の語源ははっきりしたことは判らない。語形が単純すぎて逆に手掛かりが無いのが困り者である。カウフマンが指摘しているように、 15世紀の綴りGoychから、母音oは長母音であったことが判る(oy、oiは長音o)。そこで、形の上から関係付けられそうなのは、長母音を持つ 中低独gôch,gôk「カッコウ(Gauch)、馬鹿(dummer Mensch)」16,古ザクセンgôk「カッコウ」17 である。この語は独Gauch「カッコウ」18,英≪方言≫gowk「カッコウ」18に対応する形。 然し、鳥の名前が裸の状態で地名になるのはドイツでは他に例が無く、直接関係付けていいものか疑問が残る。

また、古いドイツ人の男名にGogo19がある(第一音節の母音oは長音か短音か不明)。フェルステマンの示す出典に よると、男名Gogoは中世初期のフランスにおける用例が2件あるようだ(恐らくフランク族によるものだろう)。然し、この人名の起源・意味も 定かではない。この名は二要素複合名の第一要素にも現れている例がある。例えば、Cogipald19, 20、Gochold 21、Gochmar19, 22。男名Gogoの起源としては、古ザクセンgôk「カッコウ」や古高独gouh 「カッコウ、馬鹿」23に由来するか、或いは古ザクセンgod,古高独got「神」を第一要素に持つ男名の短縮名Godaco 24の変形の可能性もある。Gochという地名はこの男名Gogoから生じたのかもしれない。然し、地名が属格形をとった 形跡が全く無く、人名に由来するというのも疑問を感じる。

残念ながら地名の由来は不明とするほか無いだろう。形の上で関係が有りそうなのは、古ザクセンgôk「カッコウ」,中低独gôch,gôk「カッコウ、馬鹿」 しか存在しないが、形以外の説得力のある説明を与えられないのが難点。
[Debrabandere(2010)p.121,Winkler(1885)p,227,Bahlow(2002)p.160,ONC(2002)p.251]
1 Paul Clemen "Die Kunstdenkmäler der Rheinprovinz. vol.1"(1891)p.458
2 Gisbert Brom "Bullarium trajectense: Romanorum pontificum diplomata quotquot olim usque ad Urbanum papam VI (an. 1378) in veterem episcopatum trajectensem destinata, reperiuntur."(1892)p.312
3 Sächsischer Altertumsverein,Sächsischer Altertumsverein "Neues Archiv für sächsische Geschichte und Altertumskunde. vol.8"(1887)p.8
4 Debrabandere(2010)p.121
5 Richard Henry Greene et al. "The New York genealogical and biographical record. vol.123-124"(1992)p.168
6 オランダ語のgは有声軟口蓋摩擦音[ɣ]という子音で発音するが、この音は日本語には音素として存在しない。 日本語などのgの子音は有声軟口蓋破裂音[g]で、舌の奥の付け根と口の中の上部をくっつけて呼気の流れをいったん閉鎖し、開放する事で 出す子音。閉鎖をせずに、舌の根と口の中の上部に狭い隙間を作って呼気を流して出す音が摩擦音の[ɣ]で、日本人には「ハ」や「ホ」の 子音に聞える。音を出す道具(舌)と場所(口腔内の奥)が同じなのに、方法が違うのである。
7 http://boards.ancestry.com/surnames.boorom/5/mb.ashx
8 ONC(2002)p.251
9 Kaufmann(1965)p.274
10 Keyser et Stoob(1939)p.186
11 Oesterley(1883)p.218
12 Baron Jules De Saint Genois "Inventaire analytique des chartes des comtes de Flandre, avant l'avènement des princes de la maison de Bougogne."(1843)p.127
13 Hansischer Geschichtsverein "Hansische Geschichtsquellen. vol.3"(1882)p.265
14 初出形Gohheを掲載する地名辞典やドイツ語サイトは、どれも前後の文脈・センテンスを挙げていない。古文書叢書でも探したが、 見つからない。
15 http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Bahlow
16 Lübben(1888)p.126
17 Köbler asW G項p.108
18 英語語源辞典p.586
19 Förstemann(1966)sp.553
20 オーストリアのザルツブルク、ザンクト・ペーター教会での記録。バイエルン=オーストリア方言圏の特徴を如実に現して いる。この方言では、標準ドイツ語の[g]と[b]は、対応する無声音[k]と[p]で現れる。つまり、標準語形なら*Gogibaldとなる。
21 Gottschald(1982)p.225
22 ロルシュ(Lorsch)古写本集の#3586に現れる9世紀の人物。
23 Köbler ahdW G項p.241
24 Förstemann(1966)sp.530

執筆記録:
2012年6月19日  初稿アップ
PIE語根Gogh:1.語根不詳

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