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漢字苑
-漢字の字源・成り立ち・起源・由来・語源の字典-


幸部
-倖、婞、悻、涬、緈-

 

【幸】コウ(カウ) xìng (『広韻』胡耿切)𠂷𡴘𢆎𦍒羍倖㚔
中古音:匣母梗摂耕韻二等開口上声(王力/ɣæŋ/, 李榮/ɣɛŋ/, 鄭張尚芳/ɦɣɛŋ/, 潘悟雲/ɦɯæŋ/, Pulleyblank /ɦəɨjŋ/, Karlgren /ɣæŋ/)ᴴˣ
上古音:母耕部上声(Baxter-Sagart /*[ɡ]ˤreŋʔ/, 鄭張尚芳/*ɡreːŋʔ/)

戦国、楚 戦国、秦
前308頃 紀元前317年 前256-217頃
上博『昭王毀室』 上博『姑成家父』 『王八年内史操戈』 睡虎地『秦律十八種』
第3号簡 第3号簡 第14字 第5号簡
統一秦
前222-前207頃
里耶第8層
第624号簡 第678号簡 第810号簡 第1187号簡
統一秦
前222-前207頃 前207
里耶第8層 龍崗秦簡
第1443号簡 第1570号簡 第1997号簡 第2088号簡 第196号簡
前漢早期
前210-前203 前202-前195
馬王堆『春秋事語』 馬王堆『老子乙本巻前古佚書』
第86行 第15行 第118行 第131行 第132行
前漢早期
前195頃 -前168 前168
馬王堆『戦国縦横家書』 馬王堆『雑療方』 馬王堆『三号墓遣策』
第139行 第140行 第140行 第67行 第247号簡 第248号簡
前漢早期
-前168 前168
馬王堆一号墓漆器文字 馬王堆『一号墓遣策』
- 第186号簡 第187号簡 第192号簡 第193号簡 第194号簡
前漢早期
前186頃 前134-前118
張家山『奏讞書』 張家山『二年律令』 銀雀山『孫臏兵法』 銀雀山『尉繚子』 銀雀山『王兵』 銀雀山『将失』
第144号簡 第147号簡 第430号簡 第336号簡 第498号簡 第868号簡 第869号簡 第1002号簡
前漢早期 前漢 漢代
前134-前118 -
銀雀山『占書』 『大上富貴鏡』 『漢印文字徴』
第2095号簡 - 周幸私印 王印幸置 臣幸臣 矦幸之印 長幸 諸幸
漢代 前漢晩期 漢代
- 前33-前7頃 年代未調査
『漢印文字徴』 尹湾『神烏伝』 流沙墜漢簡
日幸 燕幸 第11号簡 1.3 2.13 3.16
前33-前7頃 漢代 後漢
前73-後31 - 後100年
居延漢簡 金関漢牘 西陲漢簡 大湾漢牘 博羅松治漢牘 出土地不明漢牘 『説文』
甲25・53A 340.035 4.79 513.009 582.013 412.003 T17N14 十下
後漢 -
後173年 後174 後176 後185 『伝抄古文字編』
『楊淮表紀』 『伯興妻墓碑』 『韓仁銘』 『曹全碑』 『集篆古文韻海』 『集古文韻上声韻大三』
第6行目 第5行目 第4行目 第5行目 3.32 17『説文』 17『義雲章』

字源不詳。恐らく会意。出土史料では戦国末期秦~統一秦~前漢前半期にかけて犬と羊に従う字形が、戦国中期の秦の金文に犬と屰(ゲキ)に従う字形が(『王八年内史操戈』(紀元前317年、秦恵王):呉鎮烽続1239))、戦国中期~晩期の楚簡では右旁に犬、左偏に倒矢・屰・干のいずれかに従う字形が用いられており(上博楚簡『昭王毀室』第3号簡、『姑成家父』第3号簡)、現用字体とは字形がかなり異なる*1。『説文』掲載の小篆は、前漢初期から後期にかけて生じたこの字の訛変が完了した後の形に基づく後漢時代の篆文で、秦篆の遺形を留めるものではない。この様に『説文』収載の小篆は字によって古い形を留めているものも有ればその逆のものも有り、出土史料と比較する事で初めて意味をなす。現在の字形への移行は前漢初期には既に始まっており、当時では稀な字形だが馬王堆漢帛『雑療方』第67行、同『春秋事語』第86行に上部構成要素の"犬"を"大"に作る字形が見える。恐らく、執・報などの左偏との類推による同化であろう。

幸は伝世史料では春秋時代に成立した『論語』が初出だが、出土史料では戦国時代早期以前の用例が発見されておらず、現存の戦国中期の秦系文字・楚系文字が古い意匠をどれ程保っているのか明らかでない。戦国中期秦の『王八年内史操戈』は去年発表されたばかりの青銅器で(2017年3月時点)、その銘文に見える"幸"は、当器を制作した鍛冶職人の個人名としての用例である*1。この字形と楚簡の字形を比較すると、現段階では犬と屰に従うのがより古い構形と判断するのが妥当だと考えられる(楚簡の字形に関して、犬と倒矢か屰か羊に従うとする論争が有る*2)。犬と屰より形成される理由は不明。素人目からすると、"獄"や"笑"(戦国楚簡は竹と犬に従う)が犬に従っている事から敷衍して、こちらに向かってくる人間(屰)に犬が喜んで駆け寄る状景を描くことでもって、「幸せ」を表した字なんではないかと妄想する(…確証無し)。屰は逆(ギャク)と迎(ゲイ)の初文で、甲骨文では「迎える、出迎える」意味での用法が有る。但し、無論この字形自体既に原形を失っている可能性も当然あるため、この様に解釈するのは仮の案でしかない事を断っておく。

『論語』以降の先秦の伝世史料では、字の殆どの用例が「まぐれ、棚ぼた、転がり込んだ幸運、僥倖」という、努力せずに獲得した幸運の意味で用いられており、現在の「幸せ、幸福」の意味は古い用例が殆ど存在しない。この為字源を孫海波(『甲骨文編』(1934)10.14a)により、甲骨文に出現する手械(てかせ)の象形字"㚔(ジョウ(デフ),ジュウ(ジフ))"(執・報の左偏に含まれる)と関係付ける説が唱えられ、その後その同定を多くの学者が追認した。この説は日本でも白川静等が紹介・追認したので、日本で最も広く通行している。だが、結論から言えばこれは誤りである可能性が高い。この手械の象形字"㚔"は殷末~西周初期のどの時点かで廃字となったらしく、単独では西周以降史料上全く用例が無い。約300年近くブランクを空けて春秋期に突然「まぐれ幸い」の意味で現われたとする点、構成要素が異なるだけでなく字音・意味も違い、更に最も古い史料の一つである楚文字では自体構成要素の配置まで異にする点等、両字は別の字と見なすのが妥当である。又、手械とまぐれ幸いでは意味上相当の隔たりが有る。これに関しては手械を付けた状態から免れる事から「まぐれ幸い」の意味となったと説明される事が多い。然し、その意味を表す為に作られた字なのであれば、手械の象形に自由になっている人の姿を加えていないのは、不自然ではないだろうか。

『説文』十下は"幸"を「幸にして凶を免るるなり」と訓じ、「偶然、災厄から免れること」の意とし、『小爾雅、広義』に「分非ずして得(う)、之を幸と謂ふ」と訓じ、「分相応ではない幸運」の意とする。すなわち、「転がり込んだ幸運」の意。現在、「幸福、幸せ」の意味に用いられているが、本来その意味を表す字は"福"や"禄"であった。実際経典でこれらと対比させている用例が有る。
●『国語、晋語、九』:"吾聞之,德不純而福祿并至,謂之幸。夫幸非福,非德不當雝,雝不爲幸,吾是以懼"
「吾(われ)之を聞く。『徳、純ならずして福禄並び至る。之を幸(カウ)と謂ふ』と。それ幸は福に非ず。德に非ざれば、雝(ヨウ)に當(あた)らず。雝は幸と爲(な)さず。吾、是を以て懼(おそ)る」
(『不純な徳しか持たないのにも拘らず幸福が並んでやってくる、これをまぐれ幸いと言う』と私は聞いた事が有る。まぐれ幸いは本当の幸福ではない。徳が無い者が和楽に与(あずか)ることはできないのだ。和楽とまぐれ幸いは相容れぬもの。私はそれが故に恐れているのだ)
春秋晋の政治家趙襄子(チョウジョウシ)が部下の新稚穆子(シンチボクシ)に異民族の戎翟(ジュウテキ:戎狄)の二つの要塞を攻撃させて陥落せしめ、その戦勝報告を食事中に急使から聞いて恐れおののいた表情をした為、側近から何故なのか問われての返答。趙襄子は自分に徳が無いと考えており、それなのに容易く敵の二要塞を得たため、これを分不相応なまぐれの戦勝と考えた。「飯を食って和んでいる場合じゃない。今まで以上に気を引き締めんと!」と思った
わけである。この話は『列子、説符篇』にも見えるが、台詞がまるで違う。趙襄子が言及する諺や、「幸は福に非ず」と有るように、当時は幸と福は反義語と捉えられていたのである。

一応、手械をつけた囚人が解放されて「転がり込んだ幸運」に有り付く様な用例も一例、有るには有る。

●『六韜(リクトウ)、犬韜、練士』:"有胥靡免罪之人,欲逃其恥者,聚為一卒,名曰幸用之士"
「胥靡(シヨビ)免罪の人にして、其(そ)の恥を逃れんと欲する者有れば、聚(あつ)めて一卒と爲し、名づけて幸用(カウヨウ)の士と曰ふ」
(刑期を終えて出所し、汚名を返上しようとして志願した者を集めて兵卒とする。彼等を名づけて幸用の士と呼ぶ)
但し、この用例は幸用が「幸(のぞ)んで用いられる」の意から生じたと考えられる。既に刑期を全うして出所したのだから、その身の自由は僥倖によるものではない。やはり、孫海波説の根拠とはなしえない。

「まぐれ幸い」の意味での用例は多い。更に先秦の用例を時代順に列挙する。
●『論語、雍也、十七』:"人之生也直,罔之生也幸而免"
「人の生なるは直し。之れ罔(な)くして生くるや、幸ひにして免るるなり」
(人の性(さが)というものは真っ直ぐなもので、之を無くして生きるのは偶々運良く悪運から免れているに過ぎない)
【最初の"生"を名詞用法として読んだ。性は生の派生字】
●『孟子、離婁章句上、一』:"君子犯義,小人犯刑,國之所存者幸也"
「君子は義を犯し、小人は刑を犯して、國の存する所は幸なり」
(立派な人物が道理を犯し、小人物は犯罪に走る。これで国が存続するのなら運が良い)
●『荀子、王制、十五』:"無德不貴,無能不官。無功不賞,無罪不罰。朝無幸位,民無幸生"
「德無しは貴(たつと)ばず、能無しは官せず。功無しは賞せず、罪無しは罰せず。朝に幸にして位(くらゐ)すること無し、民に幸にして生くること無し」
(徳の無い者は尊重してはならず、能力の無い者を任用してはならない。功績の無い者を褒賞してはならず、罪の無い者を罰してはならない。朝廷にまぐれで高位に居る者はおらず、民間にその日暮しで安楽を貪っている者はいない)
【"朝無幸位,民無幸生"は『荀子、富国』にも見え、「故に曰く」とあるので、当時広く知られた諺だったのだろう。『韓詩外伝、三』にも引用されている】
●『荀子、議兵、五』:"故以桀詐桀,猶巧拙有幸焉"
「故に桀を以て桀を詐(いつは)れば、猶(なほ)巧拙幸有らん」
(したがって、桀(ケツ:夏王朝最後の君主で暴君)をもってして桀を騙すのであれば、巧く事を運べるか否かで成功するかもしれません)
●『春秋左氏伝、僖公、十四年』:"秦饑,使乞糴于晉,晉人弗與,慶鄭曰,背施無親,幸災不仁"
「秦饑(う)ゑ、糴(テキ)を晉に乞(こ)はしむ。晉人與(あた)へず。慶鄭(ケイテイ)曰く、『施(シ)に背けば親無く、災(わざは)ひ幸ひするは不仁なり』と」
(秦に飢饉が襲い、隣国の晋に食糧を売ってもらえないか打診したが、晋はそれに応じなかった。慶鄭(晋の政治家)は『(秦から前年)恵みを受けたのにこれに背けば友好を失い、秦に降りかかった災厄に付け入って僥倖を得るのは仁義に悖(もと)ります』と言った)
●『春秋左氏伝、宣公、十六年』:"則國無幸民,諺曰,民之多幸,國之不幸也,是無善人之謂也"
「善人上に在り、則(すなは)ち國に幸民無し。諺に曰く、「民の多幸、國の不幸なり」と。是(これ)、善人無しを之(これ)謂ふなり」
(優れた人が上にいれば、国に棚ぼたを望むような堕落した民はいなくなる。「民に沢山のまぐれ幸い、それは国の不幸」という諺がある。これは、優れた人物が居ない事を言ったものである)
●『国語、晋語、三』:"國斯無刑,婾居幸生"
「國斯(こ)れ刑無くして、婾居幸生(トウキヨカウセイ)す」
(国に刑罰が無く、理由も無く高位に在り付いたり、義務も果たさず命だけは生きながらえようとする)【「偷居倖生」に作る本も有るが、同じ意味】
●『国語、晋語、六』:"武不行而勝,幸也。幸以為政,必有内憂"
「武行はれずして勝つは幸ひなり。幸ひにして以て政を爲せば、必ず内憂(ナイイウ)有り」
(武力を用いずに勝利を得るのは転がり込んだ幸運である。僥倖を頼んで政治を行えば、必ず内乱が生ずることだろう)
●『荘子、徳充符、一』:"受命於天,唯舜獨也正,幸能正生,以正眾生"
「命を天に受けて、唯(ただ)舜のみ獨り正しく、幸ひに能(よ)く生を正して、以て眾(おほ)くの生を正す」
(天道より大命を受けた人の中では、ただ舜だけが独り正しく、幸いにも己の生を正すことが出来たので、それで民衆の生をも正したのだ)
【池田知久『全訳注荘子上』p.331参照】
●『荘子、応帝王、五』:"幸矣!子之先生遇我也。有瘳矣,全然有生矣"
「幸ひなるかな!子の先生の我に遇(あ)えるや。瘳(い)ゆる有り、全然として生くる有り」
(運が良かったですなぁ。昨日、貴方の先生が私に会ったのは。もう完治しておりますよ、すっかり元気になっております)

射幸心(まぐれ当たりによる利益を願う気持ち)の射幸は『三国志、蜀書、譙周(ショウシュウ)伝』に引用されている譙周著『仇国論(キュウコクロン)』(散逸)が初出。射幸の原義は「まぐれの運を射止める」。『仇国論』は譙周が諸葛亮の死後、姜維が主導した北伐に反対する為に書いた書といわれている。
●『仇国論』:"諺曰:「射幸數跌,不如審發。」"
「諺に曰く、『幸を射り數(しばしば)跌(つまづ)くは審(つまび)らかに發するに如(し)かず。』」
(『闇雲に幸運を射止めようとしても何度も失敗するのは、慎重に矢を放つことには及びもしない』という諺も有ります)
【これも、少なくとも当時蜀漢にあって良く知られていた諺であったようだ】

幸は戦国楚簡に4例見える。全て「幸せ、幸福」の意味で用いられている。
●上博楚簡『昭王毀室』第3号簡:"之母辱君王不幸,之父之骨才於此室之下"
(ボク)の母、君王を不幸に辱め、の父の骨、此の室の下(カイカ)に才(あ)り」
(私の母は(この様な縁起の良い日に亡くなって)王を不幸に遭わせてしまう事になってしまいました。私の父の遺骨が、この宮殿の階下に埋葬されております)
この引用は楚文字での"幸"の初見となった用例である。現行や小篆の"幸"とは字の構成要素や配置が異なるため、整理者の陳佩芬(チンハイフン:1935~2013:女性。上海博物館青銅研究部主任、副館長を歴任。金文の専家)によって犬を意符とし、屰を声符とする形声字と解釈され、に隷定、最初"逆"の異体として釈字された。従って"不逆之君"と読為され、これは「道をわきまえている君主」の意味と解された(『晏氏春秋』内篇問下にも用例が有ることを指摘している)。これに対し、"之母辱。君王不幸之父之骨才於此室之下"と断句する提案が劉樂賢より提出され、「王は私の父の遺骨がよもや宮殿の階下に埋葬されているとは想像していなかった」意味と捉えるなど、諸説紛糾した。ここから陳剣が幸に釈字する説を2005年5月に提出し、「私の母が(王が建設した新宮殿の落成式の日に亡くなってしまい)王に不幸な思いをさせる事になってしまいました」の意味である事が指摘された。今、この解釈が文脈上・字釈上・語法上もっとも自然で無理が無い事から、この釈読でほぼ決着を見ているようだ。尚、陳剣の発表から10年近く経過して出版された湯浅邦弘『竹簡学 -中国古代思想の探究-』(2014年5月、大阪大学出版会)p.181は、整理者の"逆"旧釈読説に従い、「私の母が
この様な吉日に亡くなり、有徳の王を辱めた」意と解釈している(p.194の脚注13も参照)。ここで「有徳の王」という表現が出てくるのは、この物語の後半で王が道に従った対応を取るため、その複線的表現ともたりえることから、この釈読も文脈上・語法上問題は無い。然しながら、字釈の上から見れば陳剣説に軍配が上がると思うので、それに従った。

●上博楚簡『姑成家父』第3号簡:"幸則晉邦之社相可而事也,不幸則取字而出」"
「幸は則(すなは)ち晉邦の社相(シヤシヨク)(う)べかりて事(こととす)るや、不幸は則(すなは)ち字(メン)を取りて出づ」
(運が良ければ我が晋国の国政を手中に収め保持する事が出来ようし、運が悪くても五体満足で退く事が出来よう)*3
『姑成家父』は春秋時代の紀元前574年12月、晋で発生した貴族同士の権力抗争である郤氏(ゲキシ)誅殺事件を取り扱うもので、伝世文献の『春秋左氏伝』成公17年や『国語、晋語、六』の記事に対応している。郤氏は当時の晋を席捲していた大貴族で、専横甚だしく他の多くの貴族から恨まれていた。次第に郤氏は他族からの讒言や謀略に会い主君の厲公との関係も悪化、追い詰められてゆく。上記の台詞は当時の郤氏当主であった郤錡(ゲキキ)が起死回生を図ってクーデターを起こして厲公を討とうと企図した時に彼が述べたもの(楚簡では、直後に郤犨(ゲキシュウ:=姑成家父)が理を唱えてこれを諌めているが、『左伝』と『国語』では郤犨の甥の郤至が諌めたことになっている)。以下に『左伝』の対応箇所を抜粋掲載する。

●『春秋左氏伝』成公17年:"雖死、君必危"
「死すと雖も、君必ず危うからん」
(我々が万が一滅亡したとしても、(国は大混乱に陥り)厲公も必ず無事では済まないだろう)
【『左伝』の台詞の方が楚簡より遥かに簡略化されている。楚簡の"不幸則取字而出"に対応すると考えられる】

●清華楚簡『湯處于湯丘』第10~11号簡:"善哉!子之云也。雖余孤,之與上下,上下交。豈敢以貪舉?如幸,余官於天威,朕惟逆順是圖!"
「善なるかな!子の云ふや。余、孤(ひと)りと雖(いへど)も、上下と之(ゆ)き、上下交はる。豈(あに)敢へて以て貪舉せんや。幸の如く、余、天威に官(クワン)し、朕(チン)惟(ただ)是の圖(ト)に逆順するのみ!」
(貴殿の言葉を是とする。余は一人であったとしても、天地と共に歩み、天地を盛んにする。どうして貪欲さを満たす事で事をなそうとしようか、いやしない。余は天の威力に仕えることを幸せとし、ただ天の意志と民意の逆行・順行に従うのみである!)*4
殷の初代王成湯の台詞。私自身は原簡画像未確認。ネットの馬文增の論文からの引用で、通用字体に改められている。簡号は他のサイトの断片的な記述をもとに10~11号簡と判断したが、確実でない(馬文增論文は簡番号未記入)。残念だが、この"幸"の原簡字形未見(凄く見たい!!!)。この「幸」の用例は珍しく「幸福」を意味している。

以下は戦国最晩期~統一秦にかけての秦簡での用例。
●睡虎地秦簡『秦律十八種、田律』第5号簡:"唯不幸死而伐綰享者,是不用時"
「唯(ただ)不幸にして死して綰享(クワンカク)を伐するのみ、是れ時を用ひず」
((止むを得ない理由で)不幸に遭って人が亡くなり棺桶を製造する必要に迫られた時だけ、時期に関係なく木材の伐採を許す)
●龍崗秦簡第196号簡:"〼不幸死,未葬〼"

「…不幸にして死す、未だ葬せず…」
●里耶秦簡第八層第2088号簡:"毋恙殹。季幸少者時賜〼"
「恙(つつが)毋(な)きや。季(キ)の幸少なるは、時に…を賜ふ」
(恙無いでしょうか?不憫なる私季(人名)は、以前…を賜与しました)

【ここでの"幸少(者)"という語は謙譲の用法だろう】

上に挙げた様に不幸の語は戦国時代の出土史料から既によく見られる語。先秦伝世文献にも用例多数。
●『論語、雍也、三』:"不幸短命死矣、也則亡"
「不幸短命にして死せり。今や則ち亡(な)し」
((顔回は)不幸な事に夭逝し、今はもういません)

【全く同じ文章が先進篇にも見える】
●『孟子、公孫丑下』:"不幸而有疾。不能造朝"
「不幸にして疾有り。朝に造(いた)る能はず」
(運悪く病気を得てしまい、朝廷に出向く事が出来ません)
●『孟子、滕文公上、二』:"今也不幸至於大故"
「今不幸にして大故に至れり」
(今や不幸な事に先君の大葬に遭遇する事になった)

漢代の出土史料上の用例を挙げる。
●銀雀山漢簡『孫臏(ソンピン)兵法』第336号簡:"不知道,數戰,不足將兵,幸也"
「道を知らず、數(たびたび)戰(たたか)ふは足らずして兵を將(ひき)ゐる。幸なり」
(戦いの道理を知らず、参加した戦いの数も不足した状態で兵を率いるのは、幸(棚ぼた)という)
●銀雀山漢簡『尉繚子(ウツリョウシ)』第498号簡:"…〼下不節童,唯勝爲幸"
「下、節童(セツドウ)せざれば、勝と唯(いへど)も幸と爲す」
(下っ端(の兵卒)が節度に従って動かなければ、たとえ勝利したとしても、まぐれに過ぎない)
今本『尉繚子、攻権』に対応:"夫將不心制,卒不節動,雖勝,幸勝也"
「それ將(シヤウ)、心制せず、卒、節動(セツドウ)せざれば、勝と雖も幸勝(カウシヨウ)なり」
(将帥が確信を欠き、兵卒が節度に従って動かなければ、たとえ勝利したとしても、まぐれ勝ちに過ぎない)
●銀雀山漢簡『王兵』第868号簡:"朝廷無正、民幸生"
「朝廷は正さず、民は幸生(カウセイ)す」

(朝廷は正さないで、民衆は一生懸命生業を営まずにその日暮しをする)

草書体は既に漢代の簡牘に現われている。
●漢簡C11(詳細時期、出土地不明):"少為幸多謝"

薄幸は薄倖の綴りで晩唐の詩人杜牧(トボク:803~852)の詩『遣懐(懐ひを遣(や)る)』に初出。
●『遣懐』:"十年一覺揚州夢、贏得青樓薄倖名"
「十年一(ひと)たび覺(さ)む、揚州の夢。贏(か)ち得たり、青樓薄倖(セイロウハクカウ)の名」
(十年の夢の様な揚州(地名)の生活から一度目が覚めれば、結局手に入れたのは遊女屋の薄情男の名前だけ)
【杜牧自身の若い頃の事を歌ったもの。薄倖はここでは人を表す語として用いられており、杜牧を指す。引用箇所は杜牧の詩の中でも最も有名な詩句の一つ】
後、明代の『金瓶梅』や『封神演義』に用例が見られる。

幸甚は前漢の劉向『説苑』、董仲舒『春秋繁露』、司馬遷『史記』などに現われているが、先秦の文献には見えない。出土史料では居延漢簡・新簡、疏勒河流域出土漢簡、敦煌漢簡に頻出し、前漢中期以降に発生・流行した言い回しと思われる。幸運・幸福は更に新しい語で、経典には全く見えない。幸運は中国よりも日本での用例が早く、『大乗院寺社雑事記』長禄3年(1459年)8月24日に「然如比罷成候間、幸運之至にて候」とあり、また『日葡辞書』(1603年、パリ本)に"Cǒun. Grande victoria, ou boa fortuna."(幸運:大勝、又は良い運)とあって、現代中国語の幸運は日本語からの借用と考えられる。幸福は更に新しい語で、『胆大小心録』(文化5年(1808年)、上田秋成)155に「すべて忠臣・孝子・貞婦として名に高きは、必不幸つみつみて、節に死するなり。世にあらはれぬは必幸福の人々なり」とあるのが初出。

*1:石小力(清華大學出土文獻研究與保護中心)『《商周青銅器銘文暨圖像集成續編》釋文校訂』p.12
『王八年内史操戈』は呉鎮烽『商周青銅器銘文暨圖像集成續編』(2016, 上海古籍出版社)初出。尚、本論文で指摘されている様に、呉鎮烽の"帀屰"の二字に釈字する説、ネットで見られる"屯"に釈字する説は誤りと考えられる。

*2:陳剣『释上博竹书《昭王毁室》的“幸”字』(2005.12.16発表)
尚、"干(カン)"に由来するのではないかとするのは私のアイデアで、字の構成要素が"獸"と同じとなる事から、"幸"は狩猟用語から発生した語・字なんではないかと最初期は妄想していた。これは、日本語の「さち」の本義が「狩猟道具」で、そこから「狩りで得た物、獲物」→「山・海のさち」→「幸福」と転義した歴史と重ね合わせた浅はかな素人考えであった(苦笑…。一応、獣(獸)は狩猟の"狩"の初文である事も考慮しての事ですけども)。そして直に判ることだが、この妄想は音韻的にも獸・幸両字の伝世・出土史料両方の用例からも全く支持出来ない(色々調べてこねくり回したけど、やっぱりどー考えても無理…)。秦系文字の最古の史料である『王八年内史操戈』の字体が出てきた事で、今は私は犬+屰説を支持している。

*3:訳は劉洪濤(《学灯》第二十八期)『上博竹書《姑成家父》重讀(修訂)』に依拠した。
*4:訳は馬文增(北京市社會科學院哲學所)『清華簡《湯處于湯丘》新釋、注譯、析辯』に依拠した。

【倖】コウ(カウ) xìng (『広韻』胡耿切)
中古音:匣母梗摂耕韻二等開口上声(王力/ɣæŋ/, 李榮/ɦɛŋ/, 鄭張尚芳/ɦɣɛŋ/, 潘悟雲/ɦɯæŋ/, Pulleyblank /ɦəɨjŋ/, Karlgren /ɣæŋ/)
上古音:母耕部上声(鄭張尚芳/*ɡreːŋʔ/)
形声。意符は人、声符は幸。『説文』に見えず、『玉篇、人部』に「徼倖(ケウカウ)なり」とあって、「博打を打つ、一攫千金を狙う;思いがけない幸運、ラッキー、棚ぼた」を意味する。この徼倖という語は、元々『中庸、十四』に「小人は險(ケン)を行ひて以て幸(さひわ)ひを徼(もと)む」(小人物は危険を冒して幸運を求める)とあるような「幸を徼(もと)む」(まぐれ当りを狙う)という成句から生じたものである。つまり、失敗する危険が高いのに一攫千金を狙うような行いを表した。幸の異体といってよい。僥倖、僥幸、儌倖も同じ語でキョウコウ(ケウカウ)と読む。僥倖、僥幸をギョウコウと読むのは、僥の声符の堯がギョウ(ゲウ)の音であることや、暁や驍の音に影響された百姓読み・慣用音で、僥の本来の音はキョウ(ケウ)、意味も「求める」で徼の異体である。

先秦伝世文献に用例がしばしば見られる。その多くは元々は"幸"の字で表記されていたもので、伝世の過程で"倖"に書き改められたものに違いない。今の所、倖は出土史料では発見されていない。
●『六韜(リクトウ)、上賢』:
"無智略權謀,而以重賞尊爵之,故強勇輕戰,僥倖於外"
「智略權謀無くして之に重賞尊爵す。故に強勇にして戰(いくさ)を輕んじ、外に僥倖(ケウカウ)す」
(智略権謀も無いのに高い賞与と地位を与えられ、そのために蛮勇に陥り戦争を軽んじ、外的要因による棚ぼたを期待する)
●『荘子、在宥(ザイユウ)、第五章』:
"欲爲人之國者,此攬乎三王之利,而不見其患者也。此以人之國僥倖也,幾何僥倖而不喪人之國乎"
「人の國を爲(をさ)めんと欲する者は、此れ三王の利を攬(み)て、其の患(うれ)ひを見ざる者なり。此れ人の國を以て僥倖(ケウカウ)するなり。幾何(いくばく)か僥倖して人の國を喪(うしな)はざる」
(人の上に立って国を統治したがっている者は、夏・殷・周三代の聖王たちの利点に目を奪われて、その弊害を見ようとしない者である。これは、国を元手にして博打を打つようなものだ。博打を打ちながら、元手の国を失わずに済んだ者が、何人居ただろうか)【池田知久『荘子上全訳注』pp.661f.】
●『商君書、算地』:"刑人復漏,則小人辟淫而不苦刑,則徼倖於民上"
「刑人、復(たびたび)漏すれば、則ち小人辟淫(ヘキイン)して刑を苦しまず、則ち民上に徼倖(ケウカウ)す」
(罪人をたびたび取り逃がすようなことが有れば、小人物は堕落し放蕩に耽り抑止力としての刑罰を苦にしなくなり、人民に対して行き当たりばったりの方策しか講じられなくなる)

又、倖偸(コウトウ)の語が有り、やはり僥倖と同義で「博打を打つ」意。
●『韓非子、詭使(キシ)』:"巧言利辭行姦軌以倖偷世者數御"
「巧言利辭(カウゲンリジ)、姦軌(カンキ)を行ひて以て世を倖偷(カウトウ)する者は數(しばしば)御せらる」
(言葉を巧みに使い私利私欲に耽り、悪事を働いて世の中を誤魔化して渡るような輩が、度々上の人に接近して信任を得ている有様だ)

又、引伸して「へつらう;佞臣」の意味が生じた。
●『後漢書、呂強(リョキョウ)伝』:
"又授位乖越,賢才不升,素餐私倖,必加榮擢"

又、婞(ケイ)に通仮して「もとる」意に用いる例が有る。
●『墨子、天志上、六』:"力政者則與此異,言非此,行反此,猶倖馳也"
「力政者(リキセイシヤ)は則(すなは)ち此れと異なり、言(ゲン)此(こ)れに非(そむ)き、行ひ此れに反す。猶(なほ)倖馳(ケイチ)するがごとしなり」
(力づくで万事を治めようとする者は博愛を以て治める者とは異なり、その言動は皆の相愛相利に反しており、あたかもその心向きは背中を向けて背いているがごときである)
【馳は「心を向ける」の意で訳した】

尚、天星観楚簡に倖と同形の字が見えるが、㚔(ジョウ)を声符とする別字である。別項で解説。

【㓑】ケイ xìng (『集韻』下頂切)
形声。意符は氷、声符は幸。『集韻、迥韻』に「㓑冷(ケイレイ)、寒きなり」とある。㓑冷は畳韻の語、用例無し。『正字通、冫部』に「入林常㓑㓑」という唐代の詩の用例を引く。これが唯一の字書以外の例。

音未詳
左偏に幸、右旁に力。『グリフウィキ』に見え、satという名のユーザーの占有グリフ。出典不明。待考。[幸力]

【啈】コウ(カウ) hèng (『集韻』亨孟切)𠵃𠶿
形声。意符は口、声符は幸。『玉篇』に「利害の聲(こゑ)なり」とあって、「互いに利益を主張して争う声」の意。又、ガツ(『集韻』牙葛切)の字音があり、『集韻』に「言ふなり」とある。殆ど用例が無い。

音未詳
左偏に土、右旁に幸。『グリフウィキ』に見え、出典を『国際符号化文字集合検討文字リスト』extf-01503とする。どの様な字か未確認。待考。[土幸]

【婞】ケイ xìng (『広韻』胡頂切)𡟡
中古音:匣母梗摂青韻四等開口上声(王力/ɣieŋ/, 李榮/ɣeŋ/, 鄭張尚芳/ɦeŋ/, 潘悟雲/ɦeŋ/, Pulleyblank /ɦɛjŋ/, Karlgren /ɣieŋ/)
上古音:母耕部上声(鄭張尚芳/*ɡeːŋʔ/)

前漢中期 後漢 -
前157-前87 後100 『伝抄古文字編』
北大簡『蒼頡篇』 『説文』 『集篆古文韻海』 『古文四声韻』
『〼〼章』第40号簡 十二下 3.32 5.20 籀文5・13
形声。意符は女、声符は幸。『説文』十二下に「很(もと)るなり」とあり、「背く、逆らう」意。同義・同声母の很(コン)と同語源か同根と考えられる(但し、韻母は異なる)*1。この諧声符の対応は「恨む」意の恨(コン)と悻(コウ(カウ))にも見られるので、恐らく方言による違いではないだろうか。又、「背く、逆らう」の意自体が、「恨む」意の恨(コン)・悻(コウ(カウ))から生じた可能性が考慮される。字は伝世文献では戦国晩期楚の屈原の『楚辞、離騒』に用例が有る(『説文』にも引用されている)。
"鯀婞直以亡身兮,終然殀乎羽之野"
「鮌(コン)は婞直(ケイチヨク)にして以って身を亡ぼし、終然として羽の野に殀(エウ)せり」
(鮌(夏王朝の創始者禹の父)は剛直だったため身を滅ぼし、最終的に羽山の野で(殺されて)早死にした)


字は新出の北大漢簡『蒼頡篇』第40号簡に見え、右旁は「犬羊」の「幸」に従う祖形を留めた字形をとる。また、『説文』に「一に曰く、親しまるなり」とあって、「親しまれる、寵愛される」の意が有るとする。これは「僥倖」の意の"幸"の派生義で、既出の「もとる」とは別語。既に幸の字に「寵愛される」の意の用法が有る。『伝抄古文字編』収載の『集篆古文韻海』3・32の字形は"婞"と同じ字形だが、"倖"の項に見え、倖字の意味での用例を典拠としたものか。他の2字は興味深い構形だけれど、その起源は不明。執に従うもののようだが、先述の通り幸と執は別系統の字である。

*1:很の中古音は匣母臻摂痕韻一等開口上声(王力/ɣən/, 李榮/ɣən/, 鄭張尚芳/ɦən/, 潘悟雲/ɦən/, Pulleyblank /ɦən/, Karlgren /ɣən/)上古音は母文部上声(鄭張尚芳/*ɡɯːnʔ/)に再建される。

サイ
宰の譌形。『中華字海』(p.620)に『篇海』を典拠として宰の譌字とする。𫳐。[宀幸]


左偏は山、右旁は幸。『住民基本台帳ネットワーク統一文字』MJ059528に見える。国字と思われるが、大原望『和製漢字の辞典2014』未収。読み・意味不明。待考。[山幸]

【𢔛】コウ(カウ) xìng
形声。意符は彳、声符は幸。『中華字海』も含めて字書に見えない。ネットでは「まぐれあたりの幸福」を意味する徼幸・徼倖(キョウコウ(ケウカウ))の異表記として徼𢔛の例が見られる。徼の影響による順行同化によって幸・倖まで行人偏を纏うようになってしまったものだが、本当にこの為に作られた字なのかは不明。徼倖と入力しようとして、誤って徼𢔛と書いているだけかもしれない。尚、『中國哲學書電子化計劃』に清代の文献での「徼𢔛」の例が数例挙げられているが、スキャン時のソフトの釈字ミスの可能性が有り、これを根拠とすることはできない(実際「徹𢔛」などとミスっている例が有る)。待考。

【悻】コウ(カウ) xìng (『集韻』下耿切)
中古音:匣母梗摂青韻四等開口上声(王力/ɣieŋ/, 李榮/ɣeŋ/, 鄭張尚芳/ɦeŋ/, 潘悟雲/ɦeŋ/, Pulleyblank /ɦɛjŋ/, Karlgren /ɣieŋ/)
上古音:母耕部上声(鄭張尚芳/*ɡeːŋʔ/)
『伝抄古文字編』(『集篆古文韻海』3・32)

形声。意符は心、声符は幸。『説文』十下に「恨むなり」とする𢙼(ケイ)の異体。『玉篇、心部』に「怨むなり」、『正字通、心部』に「怒るなり」とある。恐らく同義・同声母の恨(コン)*1と同語源で、その方言対応形ではないだろうか。『孟子、公孫丑章句下』に「則ち怒ること悻悻(カウカウ)然として、其の面に見(あらは)る」とあり、悻悻然は腹を立てるさま。

又、引伸して「剛直」の意が有る。
●『晋書、秦秀伝』:"秀性悻直,與物多忤"
「秀の性は悻直(カウチヨク)なり,物とは忤(さから)ふこと多し」
(秦秀(西晋の政治家)は性格が剛直だったため、他人と反目する事が多かった)
●『資治通鑑、斉武帝永明二年』:"武陵王曅多材藝而疏悻、亦無寵於帝"
「武陵王曅(エウ)、材藝(ザイゲイ)多くも疏悻(ソカウ)たり、亦帝に寵無し」
(武陵王曅(ヨウ)(南朝斉の皇族蕭曄(ショウヨウ):467~494)は多芸多才だったが気難しく剛直だったため、帝からの寵愛は無かった)

*1:恨の中古音は匣母臻摂痕韻一等開口去声(王力/ɣən/, 李榮/ɣən/, 鄭張尚芳/ɦən/, 潘悟雲/ɦən/, Pulleyblank /ɦən/, Karlgren /ɣən/)、上古音は母文部去声(鄭張尚芳/*ɡɯːns/)に再建される。

【涬】ケイ xìng (『広韻』胡頂切)𣷟𣸖
中古音:匣母梗摂青韻四等開口上声(王力/ɣieŋ/, 李榮/ɣeŋ/, 鄭張尚芳/ɦeŋ/, 潘悟雲/ɦeŋ/, Pulleyblank /ɦɛjŋ/, Karlgren /ɣieŋ/)
上古音:母耕部上声(鄭張尚芳/*ɡeːŋʔ/)
形声。意符は水、声符は幸。先秦字だが『説文』未収。『集韻』に「溟涬(メイケイ)、自然の氣なり」とあり、溟涬という畳韻の語で用いられる。

『荘子、在宥(ザイユウ)、第四章』に用例が有るが、涬溟(ケイメイ)に作る。
"堕爾形体,吐爾聡明,倫與物忘,倫與物忘,大同乎涬溟"
「爾(なんぢ)の形体を墜(す)て、爾の聡明を吐き、倫(とも)と物とは忘れて、涬溟(ケイメイ)に大同(ダイドウ)せよ」
(そなたの身体の働きを退け、耳目の感覚作用を除き、世人との係わりや外物の存在を忘れ去って、混沌たる奥深い暗闇の道に、大きく融けこんでいきなさい)
上記の読み下しと日本語訳は池田知久『荘子上、全訳注』(2014、講談社)p.647-651からの引用。該当部分の注釈によると(pp.658f.)、『釈文』収載の司馬彪(シバヒョウ:西晋の文献学者、著述家。三国魏の司馬懿の孫)の注に「自然の氣なり」とあり、「元気の未だ別れぬさま」( 『大漢和辞典、七』p.2)という。自然に有る混沌とした気のことらしい。『集韻』の訓はこれを踏襲したもの。池田知久は、この『荘子』の文章に取材した『淮南子』や『文子』が"大通混冥"に作っている点などを根拠に、上記日本語訳にある様な「混沌無形」を言う語と解釈されている。加えて、この涬を『説文』七下に「空なり」とする𥥻(ケイ)という字の仮借とする説(馬叙倫、赤塚忠)も有ると指摘する。又、張衡『思玄賦』に「引く、牽引する」の意での用法が有る。


左偏に犭、右旁に幸。『グリフウィキ』に見え、出典を『国際符号化文字集合検討文字リスト』extf-04508とする。どの様な字か未確認。待考。[犭幸]

【𢩓】コウ(カフ) gé (『類篇』竭合切)
字源不詳。『類篇、戸部』に「閉むるなり」とあって、「戸を閉める」意。用例無し。音義が殆ど同じの『説文』十二上に「閉づるなり」とある㧁(コウ(カフ))、『集韻』に「戸を閉むるなり」とする𢩘(コウ(カフ))という字が有り、これらとの語源上の関係がネットで指摘されている*1。これが正しければ、𢩓はこれらの字の訛形から発達したと見なす事も可能だろう。

*1:元流書坊『走動,闔上窗子,“𢩓”住門,紟牢褲帶,箍緊嘴』(2017.2.18閲覧)

【𢻏】キ 𢽞
『集韻、支韻』に「弓が硬いさま」を表す字として掲出する𢻚(キ)の或体。𢻚の拼音はqí、反切は『広韻、支韻』に「巨支切」とある。字源不詳。待考。

【𣈑】hwngq
形声。意符は日、声符は幸。中国南部の広西チワン族自治区に住むチワン族の言語チワン語の方言hwngq「蒸し暑い」を表す古壮字として用いられた。

ゲツ 𢮡𣔏㮆𣖂𣕀

後漢 -
後100 -
『説文』 『汗簡』
六上、古文 p.15

形声。意符は木、声符は後述する。𢮡𣔏㮆𣖂𣕀も同じ字。『説文』六上に𣡌(ゲツ)を正字とし挙げ、「伐木の餘(あまり)なり」とあり「切り株」をいい、古文2字を掲出する。その一つが㮆(ゲツ)で、その他の類似字形はいずれもその譌体。もう一つの古文の𣎴(ゲツ)は"木"の上半分を除去して根元だけが残存した姿を表すもので、象形、又は指示。㮆は『汗簡』にも収録されており、戦国晩期には秦以外のどこかの地域で用いれれていた字体のようだ。𣡌の正字は『説文』が𣡌の或体として挙げている櫱(ゲツ)で、意符が木、声符が辥(セツ)の形声字である。

辥の中古音は心母山摂薛韻三等開口入声(王力/sĭɛt/, 李榮/siɛt/, 鄭張尚芳/siᴇt/, 潘悟雲/siɛt/, Pulleyblank /siat/, Karlgren /si̯ɛt/)、櫱の中古音は疑母山摂薛韻三等開口入声(王力/ŋĭɛt/, 李榮/ŋjɛt/, 鄭張尚芳/ŋɣiᴇt/, 潘悟雲/ŋɯiɛt/, Pulleyblank /ŋiat/, Karlgren /ŋi̯ɛt/)と再建されている。心母等の歯茎摩擦音系声母と疑母の互易は珍しいものではなく、屰(ゲキ:中古音、疑母陌韻)と朔(サク:中古音、生母覚韻)、魚(ギョ:中古音、疑母魚韻)と穌(ソ:中古音、心母模韻)、彦(ゲン:中古音、疑母仙韻)と産(サン:中古音、生母山韻)、楽(ガク:中古音、疑母覚韻)と爍・鑠(シャク:中古音、書母薬韻)等の字に見られる。恐らくその元音は軟口蓋鼻音[ŋ]の方で、後続の前舌系の介音や韻母によって硬口蓋化が生じた後、直音化と無声音化が生じて歯茎摩擦音系声母に転じたものだろう。

㮆字は形声と考えられるが、その成立については二つの可能性が考えられる。一つは段玉裁が『段注』で既に言及している説で、羍(タツ)を声符とする解釈。羍(タツ)の中古音は透母山摂曷韻一等開口入声(王力/tʰɑt/, 李榮/tʰɑt/, 鄭張尚芳/tʰɑt/, 潘悟雲/tʰɑt/, Pulleyblank /tʰat/, Karlgren /tʰɑt/)と再建されている(但し、羍は達の逆成字なので、意符が木、声符が達の省声の可能性も有る)。同じ声母の互易は炭(タン)と岸(ガン)にも見られ*1(炭は
『説文』では岸の省声とする)、疑(ギ)と癡(チ)にも硬口蓋化しているが同じ例が見られる*2。もう一つは私の考えだが、意符の木と辥の省声を声符とする字と見る案。辥の左半分か左下部分が省略された形に由来するのではないかと考える。又、『古文四声韻』に櫱の古文と汗簡の字形として屵(ゲツ)を挙げる。この字形も確証がないが辥の左上部分を抽出して生じた略体の様に見える。今の所、出土史料に㮆系統の字形が見つかっていないので、全て憶測。待考とする。𪲟。[木幸]

*1:炭の中古音は透母山摂寒韻一等開口上声(王力/tʰɑn/, 李榮/tʰɑn/, 鄭張尚芳/tʰɑn/, 潘悟雲/tʰɑn/, Pulleyblank /tʰan/, Karlgren /tʰɑn/)、岸の中古音は疑母山摂寒韻一等開口去声(王力/ŋɑn/, 李榮/ŋɑn/, 鄭張尚芳/ŋɑn/, 潘悟雲/ŋɑn/, Pulleyblank /ŋan/, Karlgren /ŋɑn/)。
*2:疑の中古音は疑母止摂之韻三等開口平声(王力/ŋĭə/, 李榮/ŋĭə/, 鄭張尚芳/ŋɨ/, 潘悟雲/ŋɨ/, Pulleyblank /ŋɨ/, Karlgren /ŋi/)、癡の中古音は徹母止摂之韻三等開口平声(王力/ȶʰĭə/, 李榮/ȶʰĭə/, 鄭張尚芳/ʈʰɨ/, 潘悟雲/ʈʰɨ/, Pulleyblank /ʈʰɨ/, Karlgren /ȶʰi/)。

音不詳
恐らく形声。意符は玉、声符は幸と考えられる。平成23年12月26日の『在留カード等に係る漢字氏名の表記等に関する告示』(法務省告示第五百八十二号)に見られる入国管理外字で、コードはF05A。恐らく朝鮮語の人名用字で、五行説に乗っ取った土のエレメントを含む行列字、本字は幸と見られる。用例未確認。𬍬。[王幸]

カ(クワ)
草冠に幸。華の譌形。『雲謠集雜曲子』に唐代の俗書に見えるという*1。尚、戦国時代の三晋系文字で同字形の文字が人名として用いられているが、㚔(ジョウ(デフ)を声符とする別字の為、別項で取り扱う事にする。𫈐。[艹幸]
*1:『中國哲學書電子化計畫』

【瓡】
執の譌形。

【䁄】ケイ xìng (『集韻』下頂切)𥈖
形声。意符は目、声符は幸。『集韻、迥韻』に「目を瞑(つぶ)る皃(かたち)なり」とあり、「目をつぶるさま」を表す。用例無し。

【䂔】ケイ xìng (『集韻』下頂切)𥏔𥏢𥏣
形声。意符は矢、声符は幸。『集韻、迥韻』に「小さき皃(かたち)なり」とあり、「小さいさま」を表す。用例無し。

【㼬】コウ(カウ) xìng (『広韻』胡耿切)
形声。意符は瓦、声符は幸。『広雅、釈器』に「㼬㼳(カウセイ)、瓶(かめ)なり」、『玉篇、瓦部』に「㼬㼳、缾(かめ)の耳有するなり」とあって、㼬㼳(コウセイ)は「取っ手の有るかめ」の意。用例無し。

【𥦭】
穴冠に幸。出典不明。音義不詳。『中華字海』未収。待考。宰(サイ)の訛形かとも考えたが、『グリフウィキ』にはその様な言及は無い。

【緈】ケイ xìng (『広韻』胡頂切)𦂜𦃉𦃱
中古音:匣母梗摂青韻四等開口上声(王力/ɣieŋ/, 李榮/ɣeŋ/, 鄭張尚芳/ɦeŋ/, 潘悟雲/ɦeŋ/, Pulleyblank /ɦɛjŋ/, Karlgren /ɣieŋ/)
上古音:母耕部上声(鄭張尚芳/*ɡeːŋʔ/)
『説文』十三上

形声。意符は言、声符は幸。『説文』十三上に「直しなり」とあり、「糸がまっすぐである」意。「経糸(たていと)」の意の経(ケイ)と音が近く*1、又、「恨む」意の𢙼(ケイ)の異体に悻(コウ(カウ))が有るなど、幸と巠(ケイ)の間には声符の互換関係がある。従って、緈は経(ケイ)と同語源か同根と考えられる。又、『広韻、婞』に「絓緈(クワイケイ)なり」とあって、「つむぎ(真綿を紡いで織った粗い絹織物)」の意。「糸がまっすぐ」の意とは別語か。いずれも用例無し。

*1:經(経)の中古音は見母梗摂青韻四等開口平声(王力/kieŋ/, 李榮/keŋ/, 鄭張尚芳/keŋ/, 潘悟雲/keŋ/, Pulleyblank /kɛjŋ/, Karlgren /kieŋ/)、上古音は見母耕部(Baxter-Sagart /*k-lˤeŋ/, 鄭張尚芳/*keːŋ/)に再建される。

【䛭】コウ(カウ) xìng (『広韻』許更切)𧨫

『伝抄古文字編』(『集篆古文韻海』4.42)

形声。意符は言、声符は幸。『広雅』に「言ふなり」とあり、「言う」意。又、『玉篇、言部』に「瞋語(シンゴ)するなり」とあって、「怒りながら語る」意。又、『字彙』に「䛭直(カウチヤク)なり」とあって、「言葉が正しい」意。又、『集韻』に「下耿切」の反切を挙げて、「言很(ゲンコン)するなり」とあって、「言葉がもとる」意。「もとる」意の婞(コウ(カウ))の言葉限定での転義の専用字として生じた字。いずれも用例無し。

【𨵉】ゴ yǔ (『集韻』偶舉切)
字源不詳。『集韻』に「小門なり」とあるが、用例は無い。『正字通、門部』に「宮中の小門」を意味する闥(タツ)の訛字とするが、音が合わない。待考。

【﨨】コウ xìng
国字。形声。意符は金、声符は幸。日本語の人名専用字。法務省『戸籍統一文字情報』及び大原望『和製漢字の辞典2014』未収。幸の繁文と見られる。

名古屋市栄の林はり接骨院の院長林﨨一氏の名が見える(同氏は鍼和会会長も務めている)*1。また、愛知県犬山市の犬山祭祭礼準備委員長に水田﨨司氏(同市鍛治屋町)の名が見える*2。また、岐阜県岐阜市岐阜刀剣愛好会の藤田﨨三氏の名が見える*3。また、三重県桑名市の深谷地区人権啓発推進会の近藤﨨也氏の名が見える*4。また、愛知県額田郡幸田町の町民スポーツ大会のグラウンド・ゴルフの部に小野﨨三(おのこうぞう)氏の名が見える*5。その他には愛知県一宮市に﨨二の名を持つ人物が*6、愛知県名古屋市南区に﨨夫の名を持つ人物が見える*7。又、1893年(明治26年)東京で平島﨨之助という人物が『男女必携文のはやし』という著書を出版している*8。

以上8名の人名用例が検出出来るが、興味深い事にその内の殆どが東海三県での用例である(愛知県5件、岐阜県・三重県各1件の合計7件)。苗字だけでなく、個人名人名用字にも地方色が現れている興味深いケースである。

尚、ネットの『weblio辞典』に「日本語ではあまり使用されない漢字です」とあるが、上掲の如く寧ろ日本での使用に限られており、しかも例が比較的多い。明らかに間違った記述である。恐らく、調べもせずに拡張文字に対して機械的にこの表記を使いまわしているだけだろう。中国の漢字サイトでは上記の拼音が指定されており「人名用字」とある*9。中国でも人名として用いる例が有るようだが、未見。『中華字海』未収。

*1:『一般社団法人愛知県鍼灸マッサージ師会、愛知県名古屋市中区会員表』
*2:『平成28年度犬山祭総会議案書(抜粋) - 犬山祭保存会』
*3:facebook『刀剣研究連合会 - 月例研究会 寸評紙谷 治宏平成26年5月17日から同年5月24日』
*4:『人権を確かめあう日編成表【市民安全部】 - 桑名市』
*5:『広報こうた:2011年8月1日』p.15
*6:『住所でポン! ネットの電話帳 2012年版』愛知県 一宮市 千秋町芝原
*7:『みんなの電話帳』愛知県名古屋市南区呼続
*8:『男女必携文のはやし (平島﨨之助): 1893|書誌詳細|国立国会図書館』
*9:『字海网』﨨

【𩜜】
左偏を食、右旁を幸に作る。フォントが有るが、出典不明。『中華字海』『戸籍統一文字情報』『和製漢字の辞典2014』未収。音義不詳。待考。




2017.3.26初稿アップ

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